2008年03月25日

白球の視点 第236回

 センバツ大会2日目(23日)の第2試合、延長10回表、履正社の攻撃、二死二塁でセンターフライ。守っている下関商ナインも応援のスタンドも、地元でテレビ観戦応援の関係者も瞬間、ホッとしたことだろう。そのとき思いもかけない落球。いまも、テレビ画面で見た、ポロリとグラウンドに落ちた球の白さが眼に浮かぶ。あとで聞けば、日頃は好守に定評のある中堅手だという。それが、“まさかの落球”によるサヨナラ負け。

 0対2の9回裏、2本のホームランで同点となり、勢いづいたあとだっただけに、泣きくずれる中堅手の姿を見るにしのびなかった。“これが野球というもの”とか、“甲子園には魔物が棲んでいる”というような常套句ですますことのできないものも感じた。

 テレビを消して、目をつぶると、過去のいくつかの“落球シーン”が甦えってきた。

 プロ野球でいえば、そのむかし、巨人-南海の日本シリーズで、南海の“勝利寸前”、一塁側ベンチ前のファウルフライを、南海の気鋭の一塁手がポロリ、そこから巨人の猛攻があって一気に巨人は勝利への道を進んだ。

 阪神・江夏豊投手の全盛期にも、あった。甲子園球場での阪神-巨人戦。センターへ上った打球を見て“これで勝った”と江夏投手がベンチへ歩きはじめたとき、スタンドのウォーッという音に驚き振り返ると中堅手がグラウンドに倒れており、“勝ち試合”がそれをきっかけにまたたくまに“負け試合”になってしまった“よもや”のケース。江夏投手の口から聞いたことだが、その中堅手は深夜、江夏宅を訪ねてきたが、うつろな眼で立ちつくしたままだったという。いわゆる放心状態で、詫びようにも言葉が出なかったのだ。

 「日頃、闘志も満点でイイヤツでね、あまりの落ちこみようで翌日からのプレーも心配されたほどだったけど、ちゃんと立ち直ってくれて、次の巨人戦でみごとなヒットを打ってチームの勝利に貢献、あんなにホッとしたことはなかった」ということだった。

 野球というゲームは、ときにそういう残酷なシーンをみせる。それも江夏投手の言葉ではないが、“闘志もあってイイヤツ”に、“勝負の神様”は残酷な仕打ちをしてみせてくれるのだからせつない。

 高校野球でも、いまなお語り継がれる簑島-星稜戦での一塁ファウルフライの落球というシーンがあった。その後、さまざまなことがあっただろうに、その選手はのちに明るくそのシーンを語るようになり、むしろ“野球の道”に懸命に生き続けたと、聞いた。下関商の中堅手もぜひ、そうであってほしい。

 ソフトバンクが開幕4試合で3試合のサヨナラ勝ちという異色の展開で始まったパ・リーグ、その間にメジャー・リーグの開幕戦をはさむ妙なスケジュールで28日からはセ・リーグも開幕していよいよ本格的な野球シーズン。25日午後、東京ドーム横のレストランで昼食をとって店を出ると、まだ午後2時前だというのに、もうレッドソックスのジャンパーを着た若者が小走りに球場へ向かっていた。いかにも“ジッとしていられない”といった風情だった。

 試合開始は午後7時だから、まだ開門もしていない時刻。しかも、レッドソックスのジャンパーを着ているくらいだから、ポケットにはとっくに前売りチケットは入っているはず。それでもつい小走りになるというところに野球ファンの胸のハズミがみてとれる。選手には、どうか、全試合、このファンの“胸のハズミ”を忘れずにいてほしい。

 毎年、シーズン前にいいかわされていながら実現にはいたらなかった試合のスピードアップ化だったが、パ・リーグの開幕3カードは、いずれも投手戦でにぎやかな“打の応酬”はなかったとはいえ攻守交代もキビキビしていて気持がよかった。さて、いつまで続けてくれるか。見守っていこう。

 本格的野球シーズンを前に恐縮だが、このコラム、みなさんとお別れになる。短かい期間ではあったが、さまざまなご意見ありがとうございました。またどこかでお会いするまで、さようなら。

posted by bbm_hakkyu |18:31 | 第221回~第240回 | トラックバック(0)
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2008年03月18日

白球の視点 第235回

 3月16日付け、日本経済新聞の俳壇欄(茨木和生選)に、思いもかけない句を見て、驚きもし、「ほう」と声をあげた。

 「ああ、ホームスチール、三原脩の忌」(豊橋・河合清)というものだ。

 31年春、当時の日本野球界の最高の人気カード、早慶2回戦、同点の7回二死満塁で早大の三塁走者・三原脩が慶大バッテリーの意表をついて敢行したホームスチールによる勝ち越し点。「驚天動地」と評した新聞もあって「三原脩」は一躍、時の人となった。

 最近、「いま三原脩の勝負論・コーチングから学びとること」という副題がついた中西太著「西鉄ライオンズ 最強の哲学」(ベースボール・マガジン新書)が好評で版を重ねているし、2月6日が三原さんが亡くなった日ということも知ってはいたが、それにしても08年春の新聞の俳句欄に、77年前の、その「驚天動地のホームスチール」の句が出てくるとは、ほんと、思いもしなかった。

 プロ野球春のオープン戦も東上してきて、どのチームも“開幕近し”を感じさせる戦かいぶりを見せているし、その俳句が掲載された同日の新聞の運動面は、アメリカの松坂大輔投手に無事第二子が誕生して晴れて? 日本でのメジャーリーグ開幕戦(レッドソックス対アスレチックス)に登板しそうだとか、怪我の後遺症が心配されていたヤンキースの松井秀喜も元気に戦列復帰……といった、それこそ77年前には夢想すらしなかったであろう野球記事が並んでいた。そこに(私にとっては)「突然」といっていい「ああホームスチール三原脩の忌」という句。「ほう」と思わず声があがったのは、野球生命の長さ、逞しさに思いが至ったからだ。

 そして、これは単に“ああ、2月6日がきた、球場をどよめかせた三原のプレーが懐かしい”というような、故人を偲ぶだけの句ではないだろうとも思った。

 「野球」といっても、その中味はずいぶん変わった。三原さんがプロ野球監督として1950年代後半から60年代、「機略縦横」と謳われ、西鉄ライオンズや大洋ホエールズで日本シリーズも制した時代とも野球は“まるで”といっていいほど変貌してきている。

 攻守にかかわる野球用具やトレーニング設備の高性能化、医療環境の充実、グラウンド上では投手の分業化、多くなった球種、複雑なサインによる多彩な戦術の駆使などなど、“三原脩の時代の野球”では語ることのできない多面性をもってきている。しかし、それでも何故いま、句の作者は77年前のホームスチールをあえて“ああ”という感嘆詞とともに世に出したのだろう。

 私は、「鮮烈さ」だと思う。77年間も、その「鮮烈なプレー」が残像として生き続けてきた。三原の忌日がくるとあらためてその鮮烈さが甦えり、野球シーズンがくるとそのことを誰かに伝えたくなってくる……そういう心境だったのではないか。

 当時、ネット裏では「最高の評者」といわれ、「学生野球の父」と崇められた故飛田穂洲氏は、この三原のホームスチールを「定石はずれ」と断じ、「慶大バッテリーの不用意による偶然の成功」とハネつけたという。しかし、中西太氏は前記著書で、こうつけ加えている。

 ──三原は後年、「定石通りにやれば同じ結果しか出ない。意表に出ることが私の野球の原点」といっている。このホームスチールこそが、三原の著書のタイトルを借りれば「風雲の軌跡」を予感させるものだった──と。

 野球は、1分先、1秒先になにが起きるかわからないスリルを伴う。観客は、それゆえにコブシを握り、目をこらしてその瞬間を待つ。プレーヤーは、その「瞬間」に賭ける。そこにドラマが生まれ、私たちはそのドラマに酔う。どんなに野球用具が高性能になっても、球種が複雑になって戦術が多彩になっても、そのことには変わりは、ない。

 プロ野球開幕。リニューアルされた甲子園球場で第80回センバツ高校野球大会も始まる。

 長い高校野球の歴史でも、名勝負、名対決が、いまもことあるごとに語り継がれているように、今季のプロ野球も、いつまでも語り継がれていくような名シーンが誕生するよう願うばかりだ。

posted by 田村大五 |21:03 | 第221回~第240回 | トラックバック(0)
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2008年03月11日

白球の視点 第234回

 公式戦ではない。“たかが春のエキシビション・ゲーム”であるのに「7試合、22打席ノーヒット(9日現在)とは、どうしたのだ。なにかあったのか」と大騒ぎされるのだから“さすがイチロー”ということか。マリナーズのマクラーレン監督は、心配する周囲に対して「シーズンに入れば250本は打つよ」と笑って見ているそうだが、過去の記録によれば、日米通じてエキシビション・ゲームであれ公式戦であれ、5試合連続ノーヒットはあっても「7試合連続」はかつて一度もなかったというから、やはり、気になることではある。一方、たとえDHでも公式戦開幕メンバーに名を列ねることができるかどうか不安視されているヤンキースの松井秀喜の動向ともども、どうも気になって落ち着かない。

 次元はまるで違うが、“気になる”といえば、キャンプ報道以来、プレーのことだけでなくちょっとした言動のはしばしまでも他のどの選手より大々的に報じられてきた日本ハムのルーキー、中田翔が、「公式戦開幕が近づいて調子をあげてきた各主力投手たち」にてんで歯が立たずしょんぼり、すっかり気落ちしてしまったとか、同じ“甲子園の人気者”ヤクルトの由規投手もコントロールがままならず悩みはじめたとか、“パ・リーグの新人王候補の双璧”と評判高かったソフトバンクの大庭翔太投手がめった打ちにあったとか、楽天の長谷部康平投手が左ひざ半月板を痛めて戦線離脱とか、このところ話題のルーキーをめぐる香ばしからざるニュースが続いていることも、気になってならない。もともと“騒ぎすぎ”といってもいいことなのだが、それにしても……だ。

 長谷部の故障が発覚する前の、2日の対ロッテ戦で好投したとき「面白い存在。合格点。ノムラ捕手がリードすれば新人王」などと大喜びしていた野村監督も、長谷部が開幕に間に合わないかもしれないとわかると一転、「これでまた最下位か……」とすっかり気落ちしたコメントを発していた。まだ春のオープン戦もはじまったばかりだというのに、気の早い落ちこみように、そんなコメントを読んだこちらのほうまで気持が萎えてしまった。そんな弱気でどうするの? 野村さん。

 そんな報道があった1日前、8日、土曜日午後、NHK教育テレビで、野村監督の約2時間にも及ぶ長いインタビュー番組を見た。苦労した少年時代からテスト入団した頃の話、ホームラン王になってからの西鉄・稲尾投手との丁々発止の戦かい、南海ホークスの兼任監督からロッテ-西武の“生涯一捕手”時代、“チャンピオン・ヤクルト監督”から“悲哀の最下位・阪神監督”、そしていま……と波瀾万丈の野球人生物語は興味深く、時間が経つのも忘れるほどだったが、その中で、野村監督は、現役時代の思い出の中で「監督のひと言」についてふれていた。

 ベンチ裏の通路ですれちがったとき、当時の鶴岡監督が「バッティング、ようなったな」とポツリとひと言、いってくれた。「それがものすごく嬉しかった」と。選手は、監督の言葉を気にしている、それをわかっていて、つい、いってはいかんことをいうてしまう……と。最近の言動についての自己反省もあったが、それだけわかっていて、ルーキーの故障だけで「また最下位か」とは“今季こそAクラス”と意気込んでいるチーム全体に冷や水を浴びせるようなものではないか。

 野村監督独特の“ボヤキ節”だから、そんなにイキリたつこともないだろうが、多くの名言至言を口にしてきた知将だけに、これも気になったことのひとつだ。

 外電をみていると、メジャーでもこのところ故障選手が続出しているようだ。8人のレギュラーのうち6人が負傷欠場中というニューヨーク・メッツのようなチームがあるように、どのチームでも主力が開幕前の手術を余儀なくされているというから、この時期の怪我は怖い。ヤンキースのジラルディ監督は、相手走者が、アウトのタイミングなのに自チームの捕手にタックル、そのせいで捕手が右手首を骨折したということで激怒して相手チームに抗議したということだが、この季節、紙一重のプレーで今シーズンの運命が決まることだってあり得る。

 一軍入りすれすれの線上にいる日米両球界の選手にはくれぐれも体のケアには万全を期してもらいたいところだ。

posted by 田村大五 |16:29 | 第221回~第240回 | トラックバック(0)
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2008年03月04日

白球の視点 第233回

 「時代が移っていく」、「時代が変わっていく」……そういうことを身に沁(し)みて感じる昨今だ。

 折りにふれ、お互い大好きな盃をかわしながら「野球というもののすごさ、すばらしさ」を長い間語り続けてきた友・稲尾和久急逝のショックがまだ消えていないとき、今度は、プロ野球史上ただひとりの「両リーグの首位打者」・江藤慎一の死。なんだか「共有していた時代」が、どんどん雲の上へ去っていったような気がして、たまらなく寂しい。

 3月2日、日曜日朝、新聞を開いて、またもうひとつの「去って行く時代」を思って、一日中、もの思いに沈んだ。

 強い個性と名ピッチング、名バッティングで私たち野球ファンの心をとらえた稲尾、江藤両個人と違って、こちらは、チーム名「近鉄バファローズ」。朝日新聞(東京)運動面によれば、オリックス球団が、携帯電話会社のイー・モバイルとスポンサー契約を結び、昨季まで「近鉄」のロゴが入っていたユニフォームの左袖に、イー・モバイル社のロゴマークが付く。近鉄の契約は昨季限りで終了。49年にプロ野球界に参入して以来、歴史を刻んできた「近鉄」の名前は、ユニフォームからも消えた……うんぬん。

 同じ紙面にトップの大見出しは「怪物堂々」で左が「2回12球でケリ」のメジャー・リーグの松坂大輔で、右が「初打席で完璧1発」の日本ハムの中田翔。そのずっと下に小さく小さく「近鉄完全消滅」と、あった。スポーツ紙には、探せど探せど「近鉄の名が消える」という話題はなかった。これが「時代」というものなんだろうなぁ、それにしても寂しいものだと、書庫に入って、04年発行の週刊ベースボール別冊「さらば、大阪近鉄バファローズ」の夏を繰りながら、ひとりで、各頁に懐しのユニフォームを着ている監督、コーチ、選手たちに“別れのあいさつ”をした。

 巻頭には「不器用なまでに猛々しく、そして心優しき男たちは、焼け焦げるほど熱い魂で戦いつづけた」という文字があった。編集者の熱い思いがこめられていた。私は、その号で、長い間お世話になった西本幸雄監督の思い出話を聞く役目を仰せつかった。いま「週刊ベースボール」の佐藤正行編集長が、「週刊プロレス」から異動してきたばかりのときで、2人で宝塚の西本宅を訪れ、約2時間、弱わかったチームがリーグ優勝するまでの苦闘の日々を語ってもらった。75年の阪急とのプレーオフで羽田選手をポカリとやった話、79年前期最終戦の対南海戦での平野選手の奇跡的なセンターからの猛返球の話、エース・鈴木啓示や4番打者・マニエルとの初めて聞く秘話などなど、西本さんは思いのたけを語ってくれたが、いまでも情景が浮かんでくるのが、長いインタビューが終わったとき、佐藤君が「ぜひ、ひと言を添えてサインしてほしい」と色紙を差し出したときのことだ。

 西本さんは、急に黙って庭をみつめ続けた。1分、3分、5分、7分……沈黙したままだ。“ご機嫌を損じたのか”と不安になった。その間、約10分間。西本さんはおもむろにサインペンをとりあげると、一気に書いた。

 「熱い心の野球を、ありがとう」

 その言葉を、じっと考えていたのだった。

 もうひとつ。これも別れぎわの話。

 「ずいぶん、ファンレターをもらったけど、忘れられないのは、北海道の女学生からもらった一通の手紙だった」という。

 その女学生は、こう書いてきたそうだ。

 「私は勉強もできない。顔も美しくない。スタイルもよくない。だから日頃、ずっと落ちこんでいる。でも、近鉄の選手を見ていたら、コツコツ積み重ねていったら、いつか何かができると思うようになった。エリートではない無名の人たちが集まって一所懸命にここまできたことに感動します」

 西本さんは、その話を披露して、いった。

 「ひとりのファンでも、そう思ってくれたということが嬉しかった。近鉄というチームで野球をやってよかったと心底、思った」。

 そういうチーム名が、ついにユニフォームの袖からも消えていった。

 かつて「近鉄」のユニフォームを着てプレーしていた選手が、いまなおオリックスにもいる、楽天にもいる。中日・中村紀洋が、どん底から甦えって07年の日本シリーズでMVPに選ばれたように、オリックスと楽天の選手たちも「熱い心」をもち続けなければならない。ユニフォームの袖から「近鉄」の2文字は消えても、「熱い心」でファンの心をゆさぶれば「近鉄」の名は語り継がれるであろうと思うからだ。

posted by 田村大五 |17:26 | 第221回~第240回 | トラックバック(0)
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