2008年01月29日
「週刊ベースボール創刊50周年記念企画」第3回(2月4日号)で、「週刊ベースボール」は、いまのようにメジャー・リーグの情報がほとんどない時代から大選手の自伝ものや戦術・戦法ものなど、他のメディアにはない数々のメジャー・リーグ情報を読者に提供してきたといい、その「早くからのメジャーへのアプローチは、日本の野球を変える一助となっていた」と自画自賛? していた。
月刊「ベースボール・マガジン」時代に長期連載した「ドジャースの戦法」が単行本になって、それが当時の巨人・川上哲治監督の目にとまって、それが「V9野球の基礎」となって球界全体に広がっていったというのはよく知られた話だが、「週刊」になって、故・中野好夫・東大教授らに「白眉の自伝」と賞賛されたのが「球聖タイ・カッブ自伝」(翻訳が、のちのコミッショナー・内村祐三氏)だった。いま、イチローの安打記録のたびに話題として登場してくる9年連続を含む12度も首位打者になった大打者。のちに映画にもなった“もうひとつの顔”をもつタイ・カッブのスキャンダル書がアメリカで発売されるなど毀誉褒貶(きよほうへん)の多かった選手だが「タイ・カッブ自伝」のほうはグラウンド上の闘争心が燃えさかる“闘魂の勝利の記録”だった。
久しぶりに、その「タイ・カッブ」の名前に接して思い出したのが、名中堅手と謳われた故・坪内道典(36~48年は道則)さんのことだ。「タイ・カッブ自伝」が単行本になった頃は、坪内さんはコーチ生活を続けていたのだが、当時のベースボール・マガジン社の池田恒雄社長に長い手紙をよこし、「私が現役時代にあの本を読んでいたら、現役プレーヤーとしてあと2シーズンは続けられただろう」と悔しがったという話。坪内さんは、日本プロ野球史上初の通算1000本安打(次に続いたのが“打撃の神様”川上哲治だ)記録の持ち主。1メートル64という小柄な体ながら、三振の少ないシュアなバッティング、盗塁王2回(1イニングに二盗、三盗、本盗と3盗塁をやってみせたこともある)の俊足、幅広い守備範囲……と走攻守三拍子そろった名外野手と定評のあった人だ。真面目な性格で選手間にも人望があった。そんな人が「タイ・カッブ自伝」の闘魂の話を読んで「私にも、ああいう闘魂があれば、まだまだ選手としてやれたのに」と悔しがったというのだ。
坪内さんが中日ドラゴンズの二軍監督だった頃、宮崎・串間キャンプの宿舎に泊りこんで、坪内さんの長い野球人生のあれこれを聞いたことがある。そのときも「若い選手たちにあの本を読め、読めといっているんだが」と苦笑いしていったものだった。“苦笑い”の理由は「本を渡して“読め”といってもなかなか読んでくれん」からだ。「その気になって心して読めば、打率なら1分、投手なら1勝は上乗せできるといってけしかけているんだけどね」。
スプリング・キャンプの季節がやってきた。「プロ野球選手にとってキャンプ・インの日がお正月」とは、いつ誰が言い出したことだったか。一般の人が新年に誓いをたてるように、プロ野球選手は。キャンプ・インにそれぞれ新たな誓いをたてて臨む。一度、宮崎・青島の巨人の二軍宿舎に部屋をとってもらったことがあったが、キャンプ初日の早朝に目覚め、窓からのぞくと、朝日にむかって手を合わせている選手の姿が目に入ってドキリとしたことがある。“ああ、ずっと、いまのその気持を忘れずにいてほしいな”と思ったものだった。
キャンプ直前になってケガをしたという報道に接することが怖い。せつない。体調の万全を祈るばかりだが、ここにきて気になるのは、ソフトバンクの王監督が予防医学の権威を招いて「選手の故障を防ぐため」の講習会を開いたり、巨人も栄養学の先生を招いてキャンプ中の選手の食事に気をつかっているというようなニュースだ。球団のほうが、それだけ気をつかうというのは、選手側にそういうことへの意識が薄いということだろう。ソフトバンクがまだ「ダイエー」を名乗っていた頃の高知キャンプで、「宿舎で豪華な夜食を用意しているのにほとんど箸もつけず、コンビニで買ってきたスナックをかじっている選手がいたりしてガッカリする」というコーチの慨嘆を聞いて驚いたことがある。豊饒な世界の裏側を見せられたような気持になってガッカリしたものだ。
特に、いま一軍入りをめざし希望に燃えている若い選手には“体調の万全を”と願うばかりだ。
幸多きキャンプ生活であることを祈る。
posted by 田村大五 |16:48 |
第221回~第240回 |
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2008年01月22日
トレード選手について書こうと思っていた。
期待されて阪神からオリックスへ移っていったというのに、コリンズ監督から「ハマナカ? フー?」といわれたという浜中治外野手。“コリンズさん、そりゃ、ないぜ”と記事を読んでハラがたち、“浜中、気にしていないかな”と心配していたが、「週刊ベースボール」2月4日号の巻頭インタビューを読んでいたら「アイツのホームランを見に行こう、アイツの勝負強いバッティングを見に行こう、といわれるくらいの選手になる」と力強いことをいっているのでホッとした。
セ・リーグからパ・リーグへ移る選手ではヤクルト→西武の左腕・石井一久投手、落合監督が「手放したくなかった」と悔しがった和田一浩外野手の補償選手・中日→西武の岡本真也投手、そしてヤクルト→日本ハムの左腕・藤井秀悟投手。それぞれ、どんなピッチングをしてみせてくれるだろうか、強い興味をもって見ることにする。
それにしてもヤクルトの高田繁・新監督も思いきったことをやるものだ。藤井にプラス坂元弥太郎投手と三木肇内野手の3人と、日本ハム・押本健彦、橋本義隆両投手と一軍公式戦経験はこの2年間で34試合という川島慶三外野手の3人との交換トレード。聞けば、川島は、高田監督が日本ハムのGM時代に強く推薦してドラフト指名入団させた快足選手で内、外野ともこなせるユーティリティ・プレーヤーだということだ。“高田監督好みの機動性のある野球をめざす狙い”という解説が多かったが、新天地で羽ばたけるか。
補償選手でいえば、FAの石井一久投手に代わってヤクルトに移った福地寿樹外野手も07年は117試合出場でホームランは0本だが28盗塁もしてみせた“走の選手”だ。広島→西武に続いて2度目の移籍で、古巣のセ・リーグに戻る。福地のプロ入り初安打は巨人の上原投手からだった。岩村もいない、ラミレスもいない新生・ヤクルトで新しい世界をつかめるだろうか。
「トレード選手」というと、いつも加藤博一選手を思い出す……と、21日午後、“下書き”に書いた。書いてから、かつて編集した「トレード史」を書棚からひっぱりだし頁をめくりながら、あの選手この選手を思い出し往時を懐かしんだ。新天地を得て光り輝いた選手、すばらしい実績をあげていたのに移籍してしぼんでいった人。その中でも「トレードがあったから、私はプロ野球の世界で生きてこられた」といいきっていたのが加藤博一だった。帰宅して構想をまとめようとした夜10時過ぎ、テレビで、その加藤さんの訃報を知りガク然とした。“虫の知らせ”というものがあるとしたら、こういうことをいうのだろうかと思った。
現役時代も、引退してからも、いつ会っても明るく、話が面白く、よく座談会にも登場してもらった。70年、佐賀・多久工からテスト生で西鉄入り。「テスト生なんていってももっぱら“ファームの球拾い”。外野で打球を追っかけていたら、スタンドにいた女学生から“あんた、どこからきたアルバイト?”といわれるんだから情けない」。決まった給料もない。加藤さんにいわせると、“ただのおぼしめし”。だから、時間があるとアルバイトもやった。オフも働いた。「プロ野球選手になる」といって出てきた故郷に帰れなかったからだ。
「プロ野球人国記」の取材で多久へ行ったことがある。町の人が“多久工の加藤”と絶讃した。グラウンドの中堅に高い金網。そのむこうに道路。「あの金網を越したのは加藤だけだった。体は小さいが、リキはすごかった」。その加藤も“プロの世界”に入れば“アルバイト”に間違われる存在だった。
それでも加藤は希望を失わなかった。プロの世界では非力と知って、スイッチ打法に取り組んだのが73年。背番号75で登録され、74年に背番号は35になったが、一軍公式戦出場75年の3試合だけ。その加藤が76年、片岡新之介捕手の“付録”の形で阪神へ移籍、79年から監督になったブレイザー監督に見出されるのだ。「すばしっこい選手が好きだということを人づてに聞いたから、こっちはもう必死よ」。闘志をむきだしにして、走りに走った。79年、プロ入り初ホームランが巨人戦で江川卓投手から。以後、“江川キラー”。80年、ついに規定打席に達して打率.314で打撃ベストテン5位。83年、次は大洋に移って「スーパーカー・トリオ」に名をつらねての活躍は、もうよく知られるところだ。
加藤博一選手に関して多くを語ったのは、いまの若い選手に“こういうプロ野球人生もある”ということを知ってもらいたかったからだ。一度や二度は、誰も壁につきあたる。「そういうとき怖じけづいたら、もう終わり」と加藤さんは、口ぐせのようにいっていた。
ベースボール・マガジン社刊の「小・中学生と指導者のための軟式野球クリニック=ヒットエンドラン」誌で“出張コーチ”をしていた連載「野球伝道師・加藤博一が行く!」が好評だったのも、そういう志が少年たちに伝わったのだろう。
トレードで新天地に挑む選手たちにも、“加藤博一の志”を伝えたい。
posted by 田村大五 |18:25 |
第221回~第240回 |
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2008年01月15日
10日、イチローが古巣のオリックスの室内練習場での自主トレーニングを報道陣に公開したときの共同インタビューがことのほか興味深かった。
報道によれば、あと130安打で到達する日米通算3000本安打に関連して「オールスター(7月15日)までにはなんとかやりたい。その先は、日本選手が立ったことがない領域に立ちたい。立つことで達成感を得られたらいい。達成されれば、野球の中での快楽を感じられるだろう」といったという。そして、そのあとの言葉が、すごいというしかないものだった。
いわく、「07シーズンで苦しみから解き放たれたという感触を得た。そこから先は遊びたいと思う。見ている人が“イチロー、遊んでるな”という印象を抱くような、そんな雰囲気でプレーしてみたい」うんぬん。
いやぁ、驚いた。これだけの言葉、プロ野球にかかわって約50年、聞いたことがない。
インタビューに答える言葉からしてタダモノではないことは、日本にいるときからいつも感嘆していたのだが、プロ入り17年目、アメリカに渡って8年目、「遊んでいると見られるようなプレー」とは、果してどんなプレーなのだろうか、今季もBSテレビの画面に見入ることになりそうだ。
オリックスの室内練習場での共同インタビューのときではないが、どこで誰に対して発した言葉だったのかさだかではないが、「長期契約するとモチベーションが下がらないか」という質問に対して「それは失礼な質問だ」と答えたという記事も読んだ。日本球界での長期契約選手の中には、長期契約を結ぶと安心してホッとするせいか、その1シーズン、プレーがゆるみがちになって成績がさがる選手が、ときにいる。質問者も、そんなことが頭にあったのだろう。だが、常に、打つときも守るときも走るときも全力プレーを信条にしているイチローには、そういう質問が耐えがたいものであったようだ。「失礼な質問」という言葉に、“プロとしてそんなことがあるわけがないじゃないか”という自負がうかがえた。
そんな記事を読んで、若き日のイチローの話を思い出した。
きっかけは、読者からの一通の手紙だった。岡山に住んでいる人で、大阪ドームに近鉄-オリックス戦(当時)を観戦にきていた。長びいた試合も終盤に入り、近鉄が大きくリードして終盤、もうイチローに打順がまわってきそうにない。そろそろ帰らないと岡山への終列車に間に合わなくなる。腰をあげかけたところで、イチローが右翼の守備位置に走っていく姿を見て、席に座わり直した。くり返すが近鉄の大量リードの展開だ。とんでもないことが起こりそうな気配もない。近鉄はさらに押した。走者三塁。そこへ右翼へ大飛球。それをイチローは、背中を塀にぶつけてジャンピング・キャッチ。そして、そこからさらにホームへ全力の大返球をみせたのだ。
その読者は、書いてきた。「近鉄の大量リードだから、その1点は別に試合の行方に影響するものではない。しかし、イチローは、そんな場面にも全力で守りのプレーを見せてくれた。私はそのとき終列車に間に合わなくてもいいと思った。そのプレーを見ただけで“野球を見た”という満足感にひたった」。
そのことをコラムに書いた「週刊ベースボール」が発表になった数日後、人づてに「イチローのお父さんが、いいことを書いてくれたと喜んでいた」という伝言があった。ホームランを打った、逆転打を打ったということでなく、そういうプレーを特筆大書してくれたことが嬉しい……と。
その年のオフ、あるパーティでイチローに会ったとき、その話をした。喜んでくれると思いきや、ジッと顔をのぞきこまれて、彼はいった。「プロなんだから当り前じゃないですか」。なんだか、怒っているようにさえ感じられた顔だった。
「苦しみから解き放たれたという感触」とは何だろう。「そこから先は遊びたい」とはどういう意味だろう。
前人未踏の領域に入っていく、この天才児(といういい方を、本人はいやがるだろうが)のプレーひとつひとつが、今シーズンも見逃せない。
posted by 田村大五 |17:27 |
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2008年01月08日
昨年の暮れもおしつまった日、京王線調布駅前で宮田親平さん(元「文藝春秋」編集長・科学ジャーナリスト)とバッタリ会った。81年1月、「七たび生れ変っても、我、パ・リーグを愛す」というエッセイを発表、その一篇に呼応してパ・リーグ・ファンが結集。「パ・リーグへの愛を市民運動にまで高めよう」と82年4月、「純パの会」が発足、年々会員が増え続けていまに至っているが、その「純パの会」結成のきっかけを作った人だ。
しばしの立ち話の中で、宮田さんは、いったものだ。「ひと頃と違って、最近はパ・リーグの人気が高まって……。人気が上がると不思議なもので、会員の熱も一時ほど高ぶることもなくなって……」。まったく、ファン気質とは、不思議なものだ。実力があるのに、個性派選手が多いというのに、セ・リーグに比べて観客が少ない、人気がないといわれていた時代、パ・リーグのファンはカッカと燃えていた。セ・リーグなにするものぞ、巨人がなんだ、阪神がなんだ(いや、キョジンとかハンシンと言葉にするのもイヤだという人々)と、パ・リーグ野球のすばらしさを讃え、応援に力がこもっていた。それがいまや札幌-仙台-千葉-福岡と、セ・リーグを凌駕するほどの勢いで、スタンドは熱気に満ちている。プロ球界を代表する若い魅惑的なスター選手も続々、生まれてきた。そうなると……。
年が明けて届いた宮田さんからの年賀状にも「この数年の激変に驚いています」という添え書きがあった。今年も多くの「週刊ベースボール」の愛読者から年賀状を頂いたが、「プロ球界はどうなるんでしょうか」というような趣旨の添え書きが多かった。実力派スター選手が次々にアメリカをめざす傾向が強まる一方で、そのことに一種の喪失感を感じる不安が底にある「どうなるんでしょうか」という言葉だろうが、私には、そのこととは違う不安がある。
もうすぐまた、あちこちから両リーグの順位予想を求められる日がくる。そのときあわてないように、正月休み、新しい年の両リーグの戦力を考えつつ予想していて、あらためて、その“もうひとつの不安”が広がった。
パ・リーグのほうは、予想がつかない。戦力的にはソフトバンクが頭ひとつ抜けていると思うのだが、昨年、一昨年の例もある。監督が替わった日本ハム、小林雅と薮田がいなくなったロッテだが、そうそうヒケをとることもあるまい。それに「予想がつかない」と混乱するのは、楽天、西武、オリックスの戦力アップ、意気込みが目立つからだ。どこがAクラスになってもおかしくはない。そしてどこもBクラスに終わるかもしれない。それほどの戦力均衡にみえる。大激戦だろう。
一方、セ・リーグはといえば、なんといっても昨年の最下位チームから最多勝投手と打点王をとり、4位チームの実績あるストッパーを加えた巨人の圧倒的な戦力には、ただただオソレイル。伝えられるところでは、この3人に費した補強費だけで日本ハムの年俸総額に近いのだという。「マネー・ゲームにしたくなかった」と球団代表はいったそうだが、これを“マネー・ゲーム”といわずしてなんというのだろうか。
広島から“全日本チームの4番打者”新井を補強した阪神とチャンピオン・チーム・中日を含めた3チームと、クルーンを失った横浜、黒田と新井に去られた広島、左腕・石井一にパ・リーグに行かれたヤクルトの3チームの戦力差はいかんともしがたい。昨年、一昨年のパの日本ハムの例もあるのだから、セでも後者の3チームになんとか頑張ってもらいたいのだが、ハタからみると、この戦力差は「A」と「B」にハッキリ分れると思う。
巨人の補強を「仁義なき補強」という見出しで報じた新聞もあった。確かに“ルール違反”はしていない。「あくなき強化意欲」と評する人もいる。しかし、私は、くり返すがこれではシラけてしまう。戦力均衡の上で、野球戦術をくりひろげてシノギをけずるところにペナントレースの面白味があると考えるからだ。プロ野球組織の長たるものは「限りなく指令に近い強い要望を、いまこそ出すときではないのか」と書いたのは日本経済新聞の浜田昭八記者だが、私も同感だ。
いつもは添え書きなどない巨人OBからの年賀状に、めずらしく「どうしようもない巨人軍になりました」という添え書きがあってハッとした。いつも辛口だが理想家肌で巨人を愛しているOBだ。いつも「若手の育成」を口すっぱくして説いている人も、ついにガマンできなくなったとみえる。
巨人ファンの声を聞きたい。
元日のスポーツニッポン紙上で有本義明さんが書いていたことだが、「グライシンガーが投げ、ラミレスが打って、クルーンが締めて勝つ」……巨人ファンは、それでも勝てば嬉しいのだろうか。
posted by 田村大五 |16:08 |
第221回~第240回 |
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