2007年10月30日
第2戦までのテレビ観戦だが、今年の日本シリーズを見ていてあらためて中日の荒木雅博-井端弘和コンビのすばらしさにうなったこと再三だった。あの息の合った守りは、落合博満監督就任以来の猛練習の結晶だといわれるが、呼吸ぴたりの守備ぶりは、そのまま1、2番の攻めにも見事に体現されて打線を引っ張っている。シリーズの勝敗はまだわからないが(いま30日正午すぎ)、この2人の攻守のプレーは、ずっと頭の中に残像として残るだろう。こういう“プロのプレー”を見るのは快感だ。
日本シリーズを横目に、どのチームも秋季練習に動き出した。「翌シーズンに向けては、実は9月にはもう動いているんだよ」と元監督に聞いたことがある。トレード・プランから交渉、コンバート・プラン、強化ポイントの練り直し等々、留任監督は、公式戦終了前に動き出しているのだそうだ。だから、秋季練習は、その実践段階なのだという。そういう意味で、いまもっとも興味をもっているのは、阪神の岡田彰布監督がどう投手陣を整備していこうとするのか、だ。
「JFK」という両リーグ通じて屈指の“抑えトリオ”でチーム防御率は確かにセ・リーグのトップだが、後半のバテは、やはり先発陣に人を得なかったからだろう。下柳剛、安藤優也、福原忍にルーキーの上園啓史でもちこたえられなかった先発グループをどう建て直すかが、来季へのポイントだと見ているひとりだが、さて、聞くところ先発グループ入りを希望しているという藤川球児、久保田智之とどう話し合い、どういう方向に導いていこうとしているのか。個人投手成績で、規定投球回数にとどいた投手がひとりもいなかったのは両リーグ通じて阪神の投手陣だけ、というのはいかにJFKがいるからといって、やはり、どこかおかしい。岡田監督が藤川と久保田にどう対処するのか、個人的にはこのオフの最大のみどころだと思っている。
新監督たちも動き出した。
“留任監督は9月から新チーム作りに動き出す”ということからいうと、新監督たちは新チーム作りには1ヵ月から2ヵ月の時間的ハンディを背負ってのスタートということになるが、投手陣が充実している日本ハムは別として、西武・渡辺久信、ヤクルト・高田繁両監督ともに、注目は、やはり、どう投手陣を整備するかだろう。特に最下位に落ちてしまった“グライシンガーひとり”のヤクルト投手陣を、高田新監督は、どう整備していくのか、これも興味がある。打線では首位打者・青木宣親、打点王のラミレスに35本塁打のガイエル……と活発に動いたのに、首位巨人に20.5ゲーム差もつけられた最下位とは、投手陣の惨状につきる。
聞けば、日本ハムのゼネラル・マネジャーとして、昨年のドラフト会議では、埼玉・鷲宮高からヤクルト入りした増渕竜義投手にえらくご執心だったという。いつまでもアメリカ帰りのベテラン・石井一久に頼っている時代ではないだろう。五十嵐亮太や石井弘寿の故障回復も待たなければならないだろうが、最下位脱出からAクラス入りを果たすには、藤井秀悟、石川雅規の左腕コンビに続く威勢のいい若手右腕を育てあげなければならないときだ。
見渡せば、ダルビッシュを先頭に・西武・涌井秀章、ロッテ・成瀬善久、巨人・内海哲也……、と、いまや投手税は若者の天下だ。遅れをとってはなるまい。それは最後の最後まで最下位を争った?広島にもいえる。右の大竹寛がようやく伸びてきたようだが、今季、左腕ルーキー・青木高広の歯がゆさといったらなかった。負けても負けても登板命令を出し続けたブラウン監督のしつこさが来季になって実ってくると面白いとみているのだが、こうやって下位チームに力入れするのは、もっともっと激しいペナントレースを見たいからにほかならない。
その意味で、表面はこともなく過ぎているように見えるが、実は、いま、このシーズンが来季へのカギを握っているのだと、そのことをいいたかった。
posted by 田村大五 |19:31 |
第201回~第220回 |
トラックバック(0)
2007年10月24日
たとえば、日本ハムの森本稀哲外野手。僚友の首位打者、リーグ最多安打(176安打)の稲葉篤紀に次ぐ175安打を打ってリーグ最多の91得点は、みごとといっていい。一塁走者で、次打者の外野の間を抜けていく長打を見つつ塁間を疾駆するしなやかな体は、日本にいた頃のイチローのベース・ランニングを思い出させるにじゅうぶんだった。「得点王」というタイトルはないが、「得点王こそチーム勝利の貢献者」という論者もいるほどで、森本は、日本ハム投打の主柱、ダルビッシュと稲葉に並ぶリーグ優勝の功労者といっていいだろう。同じ日本ハムでいえば、58犠打のパ・リーグ新記録を作った田中賢介もそうだが、タイトルこそとれなかったものの、前年までの成績と比べると、格段の進歩をみせた選手の印象が強く残るシーズンだった(田中賢介がプロ入りした年、イースタン・リーグでタイトルこそとれなかったが、ベースボール・マガジン社制定の「ビッグホープ賞」に選ばれて以来、シーズン前の激励会で顔を合わすたびに「ビッグホープ賞受賞者は、イチロー以来みんな立派な選手になっている。頑張れ」と励まし続けてきたのだが、今季、7年目、25歳、みごとな“オトナの選手”に成長してくれたと喜んでいるひとりだ)。
同じ「田中」でいえば、ヤクルトの田中浩康内野手も、その進境ぶりに目をみはった選手のひとりだ。後半戦になって二塁に定着した昨年に比べ、今季は青木宣親とラミレスの間を打ち続けるというむずかしい立場で常時出場して打率.2949、よくつなぎ役を果たしてリーグトップの犠打51(2位が中日・荒木雅博の30犠打だからダントツだ)。もうひとつのリーグトップの三塁打8という数字も新鮮だ。森本のような“走る、走る、また走る”というイメージが重なってくるからだ。チームは最下位。打者の話題といえば青木とラミレスの首位打者争いのことばかりだったが、台頭してきた田中浩康は、青木に次ぐ若い打者の出現ということでもっと注目されていい存在だと、ずっとプレーを見ていたのは私ひとりだっただろうか。
移籍組でいえば、オリックス-巨人の谷佳知。パ・リーグ2冠王から巨人入りした小笠原道大とともに、パ・リーグからきたこの2人の活躍なしに(他の要因はあったにしても、だ)、今季の巨人のリーグ優勝は考えられなかったと思う。そして、私が特筆大書したいのが、ロッテの早川大輔外野手だ。06年、オリックスで一軍公式戦21試合出場、46打数9安打、打率.196だった男が、07年、ロッテに移って133試合出場、459打数、130安打、打率.2832で、リーグトップの8三塁打の快打好走。“旧オリックス組”の谷と早川が新天地で大活躍、交換に巨人とロッテからオリックス入りした選手がほとんど“戦力”にならず、このトレードを行なった球団フロントは“いったいなにを考えておるのか”とオリックスのオーナーは激怒したというが、ホント、谷との交換で巨人の誰がオリックスへ行ったのか、早川との交換でロッテの誰がオリックスへ行ったのか名前と顔がとっさに思い浮かばなかった(ゴメンね)。それほど、このトレードには大きな差があった。“球団フロントの戦い”とはこういうところにあるのだろうが、早川の活躍は、それをあらためて形にしてみせてくれたといえようか。
“タイトルこそとらなかったが表彰ものの選手”といえば、私は中日・森野將彦をあげる。打率.2943とか打点97という数字を超えた勝負強さ、それをバッテリー以外の7つのポジションを守りきって、シーズンを通じて発揮し続けた気力と体力。ウッズのあとの5番を打てば5番打者の役割を果たし、福留が抜ければ3番打者の役割を果たし、それが内、外野、ときに応じて守備位置を変えてのことだから、立派というほかはない。森野の“ツメのアカ”を煎じて飲ませたい選手がいっぱいいるから、よけいだ。
今季は、若手の台頭も目立った。ロッテの成瀬善久は別格としても、ソフトバンクの本多雄一、日本ハムの稲田直人、阪神では林威助、桜井広大が大きな拍手を浴びるようになったし、それにようやく勢いがついてきた楽天の草野大輔や渡辺直人を含めてもいい。次々と“若々しい戦力”が出てくるではないか。だというのに、またぞろ他チームで活躍した外国人選手に触手をのばそうとしている球団が続出している気配がある。嘆かわしい!
posted by 田村大五 |12:08 |
第201回~第220回 |
トラックバック(0)
2007年10月16日
夜遅いNHKテレビで、このところ多い、いわゆる「アーカイブス」番組でひと昔、ふた昔前の映像を懐かしく見ている年齢だが、家人が見ていたバラエティ番組で、若い歌手(氷川きよしとベッキー)が「長嶋(茂雄)さんと王(貞治)さんが巨人の選手だったことを知らなかった」といったシーンには、番組で同席していた年配のグッチ裕三さんも椅子の上でひっくりかえっていたが、私などは、驚きのあまり、座っていた椅子からとび上がったほどだ。普段、さまざまなことで“時代はまるで変わってきている”ことはわかっているつもりでも、このふたりの若いタレントの「ON=巨人」は「知らなかった」発言は、“そういうことなんだぞ、お前!”というような“旧人間・私”への強烈なメッセージにも聞こえてきたものだ。
そういう“プロ野球の歳月”に関していえば、このところ、ひとつのテレビ・コマーシャル・フィルムに、“感慨あらた”といえば聞こえはいいが、ある種のショックをおぼえた。かつての巨人-阪神の小林繁さんと、阪神-巨人の江川卓両投手が共演する日本酒のテレビ・コマーシャル。“ああ、そういう時代になったんだなぁ”というのが、私個人のまっさきの感想である。
「ON=巨人」を知らない人がいるのだから「江川問題」を知らない若い野球ファンもいるだろう。「どうしても巨人に入りたい」と太平洋クラブ・ライオンズ(いまの西武の前身)のドラフト1位指名を拒否してアメリカの大学へ行き、1年後に帰国してドラフト会議の前日に「空白の一日」という理論? で巨人と契約、リーグ会長が拒否すると巨人はドラフト会議をボイコット、巨人欠席の会議で阪神が1位指名するが江川側は応じず、この77年暮れから78年春まで、江川家があった栃木・小山には報道陣が殺到、新聞はスポーツ面だけでなく社会面まで大きくさいて報道、一種の“社会問題”となって世間をにぎわせた。78年、キャンプ・イン直前に、江川は阪神と契約した上で巨人・小林繁投手とトレードという“コミッショナー裁定”で、この問題は一応のピリオドをうったが、そのとき一度姿をくらました小林投手と「週刊ベースボール」は独占会見、「私は江川投手とのトレードに応じたのではなく、(混乱した)プロ球界の正常化のためにあえてこのプランをのんだ」という言葉を引き出した。
ふたりは以後、直接会って話をしたことがなかった。いや、小林投手に聞いた話では、一度だけ寿司店でバッタリ遭遇したことがあるそうだが、江川投手は気まずそうに頭を下げて去ったという。“事件”の流れからいって江川投手は“ダーティ・ヒーロー視”され、小林投手はキャンプ地の高知から安芸まで車が続いて大渋滞を起こすほどの人気者になり“輝けるヒーロー”となった。
それから29年。ドラフト制度は、それ以後もさまざまな問題を生んだが、「江川事件」のような大騒動は、もうなかった。「江川問題」の渦中で取材に明け暮れた身にとってはそれでも事件の“後遺症”がずっと残った。
そのふたりがいま、日本酒の宣伝で、テレビ画面の中で、笑いをふりまいている。歳月はすべてを流してしまうのだろうか。29年間という歳月の中の、ふたりの野球人生を思い、あらためて“歳月”というものが身に沁みた。
今年の高校生ドラフトの、“ビッグ3”といわれた大阪桐蔭高・中田翔→日本ハム、仙台育英高・佐藤由規→ヤクルト、成田高・唐川侑己→千葉ロッテの抽選が決まったときの3人の笑顔を見たとき、“ああ、ドラフト制も選手の心の中にここまで浸透、成熟したんだな”と思ったものだった。それを“自分の運命”と正面から受けとめて、その中で自分の野球の力を思いっ切りためし伸ばそうという思いと志。そういう確たるものがあるからこその、あのさわやかな笑顔だったのだろう。
パ・リーグのクライマックス・シリーズ、第2ステージ第2戦、4回表、カメラマン席にとびこんでファウル打球をつかみ、7回裏二死から6連打のきっかけを作った日本ハム・稲田直人はドラフト5位指名、7回表二死一、二塁のピンチで“あわやロッテ逆転の長打?”と思われた左翼への大飛球をつかんでバレンタイン監督を悔しがらせた工藤隆人は9位指名の入団だった。彼らは、そこから“自分の野球の世界”を作りあげた。
“江川事件”から29年、確かにプロ野球の世界は変わった。超満員の札幌ドームがドッと揺れているのを見ながら、思ったことだった。
posted by 田村大五 |18:43 |
第201回~第220回 |
トラックバック(0)
2007年10月09日
6月の広島-横浜最終戦、10対0と広島リードの9回表二死、すでに引退を表明している広島・佐々岡真司投手のカウント1-3からのストレートを左中間席に打ちこんだ横浜・村田修一が「こんなにつらいホームランを打ったのは初めて」と、泣きながらダイアモンドを一周したという報道を複雑な気持ちで読んだ。
“ホームランを打って泣きながらベース一周”というと、70年のパ・リーグ最終戦、阪急-東映戦での大杉勝男を思い出す。ずっとホームラン・レースのトップを走っていたが南海・野村克也がジリジリ追いあげてきて、ついに追いつかれる。不調に陥った大杉は、「オレはもうダメだ」といい続け、うちひしがれていたという。当時“兄貴分”だった張本勲さんに聞いた話だが、「そばにいても見ておれなかった」というほどの沈みこみよう。そして最終戦、ついに一発、打席の中で打球の行方をじっとみつめ、打球が外野席でハネかえったのを見届けたとたん、大声で泣きはじめ号泣しながらのベース一周、ベンチにかえってからも張本の胸に顔を埋めて泣きじゃくり、いま日曜朝のテレビで「喝!」と叫んでいる、あの張本さんももらい泣きしたほどだったという。それが、大杉にとって初のホームラン王タイトルだった。
村田が泣きながらベースを一周したという話を聞いてとっさに思い出した“むかし話”だが、どうも村田の場合は、大杉とはかなりニュアンスが違うようだ。8月の時点で、中日のウッズに8本も差をつけられていたというのに9月に13本と大ブレーク、一気に追いつき、ついにウッズと巨人・高橋由伸を追いぬく36号を放ったというのに「こんなにつらいホームランは初めて」とは……。
10対0という広島の圧倒的リードという試合状況。投手は引退表明の佐々岡。カウント1-3からの直球。そういうことの“うしろめたさ”だったのだろうか。だが、私は、そこまで考えなくてもいい、と思う。10対0だろうが、9回二死走者なしだろうが、“もうどうでもいい”と考えることはない。全力で打ちにいくのは、プロの打者として当然のことだろう。佐々岡投手も「最後は直球で勝負したかった」といっている。しかも、報道によれば、「遠慮なく打ってこい」といっていたという。それでは「こんなにつらい……」はないだろう。胸を張って「オレは36号を打った」といえばいい。
いや、逆に、とにかく“あと1本”が欲しいが、残り試合はどんどん少なくなる、“とにかく打ちたい、とにかく打ちたい”という思いだけが先走る。なかなか出ない。そういうときの9回二死からのホームラン。それが「こんなにつらい……」という言葉になったのだろうか。そうすると、37年前の大杉勝男と似たようなものになる。しかし、報道記事を読んでいると、どうも違う。どうも“佐々岡投手に対して申しわけない、すまなかった”という思いの涙、というふうに感じてしまう。それが、報道記事を読んだだけの、私個人の間違った解釈だったとしたら許してもらうしかないのだが(「週刊ベースボール」の担当記者か私自身が次に村田修一に会って確かめなければならない)、もし、村田の「つらいホームラン」が「10対0、9回二死」からで「引退する佐々岡への仮借ない追撃」だったことへの“謝罪めいた思い”からの発言だったとしたら、私は、あえて、村田に「つらいホームラン」などといってはいけない、と訴える。
投手が投げる、打者が打つ。そこからくりひろげられる筋書きのないドラマ。だから、野球は面白い。あらかじめ仕組まれたドラマにロクなものは、ない。村田修一は、どんな状況にかかわらず、プロの打者として、ちゃんと打ったのである。恥ずかしがることではない。
posted by 田村大五 |20:06 |
第201回~第220回 |
トラックバック(0)
2007年10月02日
61年8月19日、甲子園球場。第43回、夏の甲子園大会、準決勝の浪商-法政二高戦。浪商・尾崎行雄-法政二・柴田勲の投げ合いで大いに沸いた試合だ。1回裏、法政二が先手をとった。それが二死一塁からの攻撃。次打者の打球は、二塁ベースカバーに走ろうとした遊撃手の逆をついて左前へと転がっていった。そのときの一塁走者が柴田で、「日本高等学校大会50年史」は、次のような「飛田穂洲評」を掲載している。
「浪商左翼手の内野返球の怠慢に乗じての柴田の快走による先取点。柴田の走塁はケイ眼というべきだが、浪商外野手の不覚もまた見逃すわけにはいかない」。
その浪商の左翼手が、初めて甲子園の土を踏んだ「1年生の高田繁」だった。私は、のちに高田が明大からドラフト1位指名で巨人入りしたとき、報知新聞に在籍中で「高田繁物語」の連載執筆を命じられて約1ヵ月、毎日のように本人の話を聞いてまとめたのだが、約40年も前の話、いまはもう細部に関してはほとんど忘れてしまっているのに、その甲子園の話だけは、そのとき語り続けていた高田の表情や、ほかの追憶話とは語調まで違っていたことをハッキリ記憶している。高田自身よほど衝撃的な体験だったからだろう。
「ぼくは別に怠慢プレーをしたとは思っていなかった。ただ、ごく普通に打球を捕って内野に返球したら、もう三塁をまわりかけている走者の背中が見えたとき、“こんなことってあるか”と思った。“ああ、野球って、こういうものなんか”と思った」。そして、こう、いうのだった。「あれが、私の野球の原点になった」。
以後、東京六大学野球の盗塁記録(当時)、法大の強肩捕手・田淵幸一との丁々発止の攻防、新人王に選ばれた“巨人1年生”の日本シリーズMVP、攻守両面のぬけめのないプレー、わけても「絶妙の返球プレー」といわれた左翼守備、それでも張本勲の入団で長嶋監督に三塁へのコンバートを命じられたとき正月も返上しての猛練習でベストナイン三塁手に……そういう高田繁の野球人生の原点が、浪商1年生のとき法政二・柴田勲の走塁を許した自分のプレーにあったというのである。
球団初の連覇を成し遂げたというのに、いま急に日本ハムのゼネラルマネジャー役を降りるといいだした高田繁の、そんな古い話を突然、思い出したのは、日本ハムが連覇を決めた9月29日、対ロッテ23回戦、0-0の6回表無死、一塁走者・稲葉篤紀が、次のセギノールの三遊間をゆるく抜けたヒットで一気に三塁へ走って生き、それが先取点につながったシーンを見たときだった。“こういう野球で勝ってきたんだな”という思いである。
小笠原が抜け、新庄が抜け「マスコミに日本ハムは弱いといわれて、順位予想などでも下位におかれ、みんなでクソーッと思っていた。だからみんなでとにかく次の塁を狙おうと思いつづけた」という選手たちのひたむきな姿勢。久しぶりの東京ドームでの試合を見にいったときにハッと胸をつかれたのは、守備位置につくときでもみんな背をのばし、全力疾走に近い走り方をみせていたことだった。
中継ぎ役を含めた抜群の投手陣、リーグ最多安打を競い合った稲場と森本稀哲……そういうヒーローとは別に、私はずっと、小谷野栄一とか工藤隆人、稲田直人や飯山裕志、それに一度、戦力外をいいわたされたが再びユニフォームを着た坪井智哉を含めてもいい、そういう選手たちの、攻守にわたる“ハツラツ・プレー”に注目してきた。彼らのプレーが何度、チームを救い、勝利に結びついてきたか。それが、守備位置につくときもひたむきに走っていく姿と結びつく。そして、それがまた、自分ではミスとも思わないプレーの虚をつかれ相手に走られてしまったことから野球をみつめ直した高田繁の姿とダブッてみえてきたのである。
大型補強にたよらず、ファームとの密接な連係による人材発掘も、今季の日本ハムの特徴といわれた。チーム編成の責任者・高田繁と現場の責任者・ヒルマン監督のみごとなチーム運営の成果といっていいだろう。なんということだ、その2人が去るという。ひとつのサンプルを示しておいて“ハイ、サヨナラ”はないだろうと思いつつも、後任者にさらなる課題をつきつけたひとつの“勇気”かと思ってみたりもする。いや、これは“金にあかした大型補強”への皮肉かもしれない。
posted by 田村大五 |17:06 |
第201回~第220回 |
トラックバック(0)