2006年07月21日
私の机の引き出しの中に、昭和9年(1934年)8月24日付けの、古くめずらしい手紙のコピーがある。「大日本東京野球倶楽部」の三宅大輔氏から、「大阪・鐘紡の牧野元信氏」への手紙だ。「大日本東京野球倶楽部」とは、いまの巨人に至る、生まればかりのの「職業野球団」で、三宅氏とは巨人の初代監督。「牧野元信」とはこの18日に亡くなった前日本高野連会長の牧野直隆さんのことだ。手紙の中で、三宅氏はしきりに情熱をこめて牧野さんに「職業野球入り」を懇願している。断わった牧野さんに「職業野球というものを誤解しないでほしい」と訴えている。高野連会長の座を現・脇村会長にゆずった直後、大阪で食事をしたとき、直接、牧野さんにその手紙をみせ、話したら、笑っていった。「私は水原(茂)君たちのように名選手じゃなかったからね。選ばれたエリートの中で野球をやるより、日本全国に数えきれないほどいるシンから野球好きのアマチュアの人と一緒に野球を楽しみたかった」。精力的に地方をまわり、高校野球指導者たちと膝をまじえて話し合っていた中でも、私が忘れられないのは「ゆとりと休養の日」プランだった。いわゆる「しごき」が蔓延する中で「ゆとりと休養」とは、なんという新鮮な提案だっただろう。
野球のこと、プロ球界のこと、学生野球のこと……顔を合わすたびにそれぞれの立場で熱っぽく語りかけてきた長いつきあいの秀れた人たちが次々に、もう顔も見ることもできず声を聞くこともできない彼池へ旅立っていったことが悲しくつらく、ショックを受け続けている日々だ。昨年から仰木彬さん、藤田元司さん、先には、こちらも社会人野球のことでいろいろと教えて頂いた山本英一郎さん、現役投手時代からコーチ、解説者時代まで投手心理の機微について語ってくれた宮田征典さん、そして今度は19日、元ヤクルト球団社長・田口周さんの訃報に接してガク然としている。
日大三高の監督として選抜大会で準優勝した(62年)あと「日刊スポーツ」(東京)の記者になったとき、報知新聞の記者だった私は、いつも肩を並べて観戦して以来の仲だった。サンケイ(現ヤクルト)の二軍監督に就任すると、ベースボール・マガジン社を訪ねてきて「大リーガーの伝記シリーズ」を全巻購入して帰っていった。「合宿にいる若者たちに強制的に読ませようと思ってね」とにやりと笑っていった。「野球選手として、まだまだみんな甘いんだよ」。
フロント入りしてスカウト部長から球団代表、そして球団社長へ。役職が変わるたびに、球団フロントの仕事の中味をレクチャーしてもらった。「現場とフロントの気持ちが合体していないといいチームはできない」が口グセだった。しして90年代、4度のリーグ優勝と3度の日本シリーズ優勝。古田兼任監督の「チームメートという感覚でした」という死を悼む談話が、その人物をよくいいあらわしていた。
球界が“いい人”を次々に失っている現実をみるのが、ますますつらい。
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第201回~第220回 |
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2006年07月12日
テレビ、ラジオの横に、必ず選手名鑑を置いておくようになったのは、一昨シーズンあたりからだろうか。毎年、ドラフト終了後から翌春の選手名鑑発行時にかけて新しいプロ入り選手に関しては、おおよそのところは頭の中に入れているつもりだが、3、4年前にプロ入りしてずっと芽が出ずほとんどファームで過ごしている選手については、ついつい頭の中から消えてしまっている。覚えきれていない。それが、このところ一軍メンバーもかなり新陳代謝が激しくなって次から次へと“新鋭”が登場して活躍、いいプレーを見せてくれるようになった。で、つい“ハテ”この選手、どこ出身で何年生まれで、プロ入り前はどうだったのだろうか”と選手名鑑のページを繰ることになる。
今年に入っていえば、たとえば広島の井生(いおう)崇光。東筑高時代、甲子園に出場しているとわかって、“あ、そういえば……”と、東筑高出身の大先輩・故仰木彬さんに、当時、「ウチの後輩にバネのある足のええ子がおるらしい」と聞いたことを突然、思い出したりする。
「週刊ベースボール」7月24日号の特集「最後の夏にあいまみえた男たち」で井生の高校“最後の夏”は、福岡大会決勝で東福岡高に大勝したことを知ったがそこにいたのが、いま横浜の4番打者、セ・リーグの打点争いのトップを行く村田修一。そうか、あの井生も、昨年までの7年間、こういう日を夢見て耐えてきたんだな……などとなにがしかの感慨にふける時間をもてるのも“名鑑のおかげ”といえるかもしれない。
たとえばまた、このところよく打っているソフトバンクの城所(きどころ)龍磨。“確か、中京高からのドラフト2位指名だったな”と思いつつ、名鑑を見直してみると「高校の先輩が入団してきて刺激を受けている」と、あった。亜大を経て希望ワクで入ってきたルーキー・松田宣浩のことだ。城島がいない、井口がいない、バチスタがいないという中でソフトバンクがよく頑張っている底流にはこういう男たちの戦いもあるんだなとうなづいたりする。
11日夜、札幌ドームでの巨人- 広島10回戦をテレビで観戦していて驚いた。9回表、代打・鈴木尚典の2ランが出て横浜5-1巨人となったとはいえ、“さあ、連敗中の巨人、最後の攻撃” というところで“テレビ観戦のみなさん、ではサヨウナラ”と中継放送はプツンと終わってしまった。中継局は、ジャイアンツとは“親戚関係の友局だというのに、午後9時前にサッサと中継をやめてしまう、そういう時代になったのかと唖然とした。
ならば、中継放送されない他の各カードの戦いぶりを、深夜のスポーツ・ニュースでなんとか想像をたくましくして、前記のような野球人生物語を自分なりに編んでプロ野球を楽しんでいくしかない……と、自らを慰めている。
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2006年07月06日
イチローが、アメリカのオールスターのファン投票で選ばれ、喜びのインタビューの中で、特に、選手の互選による「ベスト外野手」に選ばれたことを「すごく嬉しい」といっているという新聞記事を読んだとき、2週間前、かつてのパ・リーグのホームラン王・門田博光さんと会ったとき、聞いた話を思い出した。
40歳のとき、一代のホームラン王・王貞治も打てなかったシーズン44本塁打を打った門田さんは、常に目標を「高く、高く設定した」という話の中でイチローについて触れた。「イチローは50歳までプレーを続けていたいといっている。それは単なる“50歳”ということではないと、私は推測している。それはね、日本球界にはもちろんない、アメリカにもない史上最多のヒットを狙ってという意思表明ではないか。誰にも破られることのない大記録への挑戦。そこがすごいと思う」。
自身、「50歳までプレーしたかった」という門田さんは、しきりに最近の若い選手が「打率3 割、20本から30本台のホームラン」でも打てば年俸は上がるし、“それでじゅうぶん”と考え、「もっともっと、その上、その上を狙ってみようという気概、意欲がないと嘆いた上で、イチローの例をあげたのだった。「それがお金を越えた野球選手の生きがいだと思うんだけどねぇ」と寂しそうに笑った。
いま記録集を開いてみても、投手、打者の別なく、通算記録をみれば一目瞭然、上位のほとんど「かつての選手」ばかりだ。打者でなんとか「歴代の強打者たち」と張り合って? いるのは清原和博くらいのものだろう。その清原も、このところ故障ばかりで、ファンの期待とは遠い世界にいる。
門田さんは昨年の宮古島キャンプで久しぶりに会って歓談したときのイチローの目の輝きが、いまも忘れられないという。目標を「高く、高く上におき、それに挑んで達成してみようという強い意思の輝き」に魅せられたという。
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