2006年01月25日

白球の視点 第191回

 神戸・三宮で地下鉄に乗り換えたとき、「がんばろう、KOBE」の年、オリックス・ブルーウェーブをヘッドコーチとして支えた中西太さんと一緒になった。1月21日午前、「故・仰木彬お別れの会」。

 「短パン姿でスニーカー履いてね、帽子をまぶかにかぶって彼とふたりで毎日、かよった電車よ。最初の頃は、若いアルバイトの係員が“どこのどなたですか”って球場に入れてくれなかったこともあったなぁ」。

 地下鉄のひと駅、ひと駅を過ぎるたびに駅名を読みあげて、中西さんの“仰木追悼語録”が続いた。昭和30年代の日本プロ野球の“一代のホームラン打者” の顔を、乗客の多くは知らないらしく、私はひとりで、故・仰木彬を支えた功労者の話を聞いていた。この欄でも書いたことだが、当時の仰木監督に「イチローの、アメリカでも大きく評価された右翼からの三塁や本塁への返球は、中西さんの指導があったからだ」という話を、初めて中西さん本人に告げたとき、シンから嬉しそうに「そうか、そんなことまでアンタにいうてくれたか」と目をうるませた。

 「私は“打つ男”という評価をもらったけど、彼(仰木監督が2歳下)は、“守備の中西”まで買ってくれていたんだねぇ。私もイチローも、そのことに関しては黙っていたんだが、彼が、そういうことのプロデューサーだったんだ」。

 話はいつしか、試合に勝つためにバッティングはもちろんだが、“守って守って守りぬいて勝つ”ことが、いかにチーム全体の盛り上がりに大事なことかという話になり、前年の最下位から仰木監督になって一気に2位→リーグ優勝チームへとのし上っていった1988年、89年当時の近鉄バファローズの思い出にさかのぼるとき、中西さんの口から、こちらが思ってもみなかった選手の名前が出てきた。真喜志康永遊撃手。

 「打率が1割台(88年)でも、よくて2割5分(89年)でも、私たちが遊撃に彼を使い続けたのは、外野との連係でピシャリと相手走者を封じる守りの力があったから。見た目にはファインプレーに見えなくても“ここ”というピンチでピシャリと相手走者を封ずるプロフェッショナルな守り。それがチームの一体感、連帯感につながる。あれでチームはグンと盛り上がったんだ」

 清原和博、中村紀洋の加入、イチローの宮古島キャンプ参加表明などで、06年のオリックス・バファローズは、がぜん注目のチームとなった。私も、キャンプ-オープン戦から公式戦へと、どういう仕上がりをみせていくか興味をもっているひとりだ。“キヨ・ノリ”の豪打も見たい。だが、ふたりの加入で、つい見落としがちになりそうな、投手陣を含めた“守り”を中村監督がどう仕上げていくのか、いささか気がかりではある。

posted by 田村大五 |00:00 | 第181回~第200回 | トラックバック(0)
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2006年01月18日

白球の視点 第190回

 プロの優勝監督(古葉竹識)がいれば首位打者(谷沢健一)もいる、沢村賞投手(松岡弘)がいれば最多勝投手(工藤幹夫)もいるし奪三振王(川口和久)、最優秀救援投手(与田剛)もいる、盗塁王(高木豊)もいるし、「代打の切り札」で売った男(江藤省三)もいる、21年の投手生活にさらに14年のコーチ生活を続けた男(若生智男)もいれば国会議員になった速球投手(江本孟紀)からメジャー・リーガー(大家友和)まで……興味と関心のある方は、もうおわかりだろう。昨年暮れまで、北海道から沖縄まで、全国でいっせいにウブ声をあげたクラブ・チームの、プロ野球出身のリーダーたち。

 「楽しく、誇れる“おらが町のチーム”に育てあげたい」とか「Jリーグのように子供から大人まで楽しめるチームに」とか、それぞれ地域に密着した野球チーム育成に、自分たちの夢を実らせようとしている。なんとか、かなえさせてやりたいものだ。

 ハッキリいうと、次々に出場辞退者が続いてなんのかのといわれているWBC出場日本チームに関してよりも、「楽しく、誇れる“おらが町のチーム”」の行く末のほうがずっと気になる。日本全体の野球熱興隆には、WBCよりもそのことのほうが大事なことだからだ。

 聞けば、全国で、クラブ・チームは、一時期全盛を誇った企業チーム数の3倍を越えるまでに増加したという。大企業の手厚い庇護を受けて成長した企業チームの選手になるためにはプロに近い能力を必要としたが、クラブ・チームには、そういう垣根がない。まだまだ広がっていくだろう。

 国体種目にしようという動きもあるそうだし、「クラブ・チーム版甲子園大会を開こう」というプランまで持ち上がっているという。ひょっとすると、このあたりから、これまでにない全国的な“野球ブーム”が巻き起こるかもしれない。だからWBCよりずっと、こういう動きに注目したいのだ。

 イチローや松坂大輔が母校のグラウンドで後輩の高校野球選手と一緒になって走ることができる時代になった。ようやく“みんな”で一緒に野球を楽しめる時代の余波ともいっていい現象を喜びたい。

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2006年01月13日

白球の視点 第189回

 1月6日、野球殿堂入り決定の記者会見で、定刻より1時間ほど早く野球体育博物館に入ったら、もう全員が控え室に勢ぞろいで待っていたのには驚いた。みんな、じっとしていられなかったらしい。

 控え室で、ちょっと小首をかたむけ微笑をたたえている門田博光さんの横に座ったら、となりの豊田泰光さんが私の耳にささやいた。「門田クン、脳梗塞で入院していたんだって。驚いたねぇ」。

 あらためて微笑の主の顔をのぞきこむと「終着駅に近づいたかなと……」などと、いってはならない言葉に、思わず「これからだよ、あなたの財産を若者たちに伝えていくのは……」と肩をたたいた。

 その日も、表彰式のあと報道陣に囲まれたとき、すばらしい言葉を口にした。

 いわく。「“飛ぶボール”の時代になってしまって、いまの打者たちは飛ばすための究極の努力をしなくなっている」― 門田博光でなくてはいえない、いまの若い打者への痛烈な言葉だと思った。

 現役時代、年に1回か2回だけだったが、グラウンドでの立ち話でなく、ホテルの一室でじっくり打者・門田の野球論を聞くのが楽しみだった。能弁ではない。むしろ訥弁で、自分の口から出た言葉を確かめるようにゆっくりゆっくり話す。

 再起不能とまでいわれたアキレス腱断裂の苦境から這い上がってのホームラン王3回。40歳になったプロ入り19年目の88年は自己最多の44本塁打 125打点の打撃2冠王。清原和博よ、いま39歳になって、39歳時の王貞治の「33本塁打を越えたい」そうだが、門田博光のことを考えれば、目標が小さい小さい。

 門田の代名詞は「フルスイング」。周囲から「振りすぎる」といわれても渾身の力を込めたフルスイングをやめさせようとしなかった。作家の山際淳司さんが元気だった頃、「たとえスタンドに届かなくても、あのフルスイングの打球が夜空に高く舞うのを見るとき、“ああ、プロのバッティングを見た”という気になる」とよくいっていたものだ。その言葉を本人に伝えたとき、「そういう評を聞かされるのが一番、嬉しい」と満面に笑みを浮かべたものだった。

 もちろん、門田だけではない。“バックトスの高木守道”も、“史上ただひとりの投手で3年連続MVPの山田久志”も含蓄のある言葉を残した。聞きながら思ったのは、この男たちの言葉をテープにおさめて、キャンプの一夜でも、全12球団の若者たちに聞かせてやれないか、ということだった。そうだ、さっそく提案してみよう。

posted by 田村大五 |00:00 | 第181回~第200回 | トラックバック(0)
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