2005年11月30日

白球の視点 第184回

 4800万アップの年俸7000万円(金額は推定。以下も)の球団側の提示に対して「80試合の(リリーフ)登板は先発の20勝と同じ価値。先発で平均的に投げていれば年俸は上がるのに、爆発的に活躍しても無理なのか」と“もっと上げろ”と反発、さらに「希望額がもらえなければ、中継ぎを放棄して先発へ転向する」とまで言いきった阪神・藤川球児投手。

 岡田監督は藤川援護にまわったが、トークショーではファンに「1年しか投げていないのに、7000万円の価値があるんか」とくってかかられたという。

 人それぞれの見方があるだろうが、私がひっかかったのは「(シーズン最多登板の前記録保持者の)稲尾さんにも失礼」という藤川投手の言葉(日刊スポーツ)だ。察するに、球団の提示額が「稲尾さんに失礼」ということなのだろうが、私にいわせれば、ここでかつての大投手・稲尾和久投手の名前を出す藤川投手のほうが失礼というものだ。

 藤川投手よ、考えてもみてほしい。

 確かに藤川は、61年に稲尾が記録したシーズン78試合登板の記録を越した。80試合登板の7勝1敗、46ホールド、53セーブ。しかし、もう一度、数字を見直してほしい。対した打者、349人。投球は92回と1/3、奪三振139。それが過去6年で4勝6敗2セーブの男の7年目で初めて光が当たった成績だ。さァ、そこで、稲尾投手のライフ・レコードの頁を開いてい見てほしいのだ。

 稲尾は2年目でもう68試合に登板して先発(完投も20だ)ありリリーフありで35勝6敗、投球回数は373回2/3。以下3年目が72試合登板で33 勝10敗、同じく373回、投げている。4年目も75試合登板で30勝15敗、投球回数は402回1/3。それまでの記録だった78試合登板の61年は6 年目で、話題の記録42勝(14敗)をあげた年で、このときは404回も投げている。

 藤川は7年間で05年の80試合を含めてトータルで215試合登板、61年の稲尾の1シーズン登板数の約半分。対した打者数でいえば、藤川は05年は 349人、7年間でトータル1002人。稲尾は2年目からずっと毎シーズン1400人から多いときは1550人を越える打者と戦い続けてきた。

 「今年はMVP級の働き」と他人がいうのはいい。しかし、そういわれて自分と稲尾投手を比較するとはおこがましいにもホドがある……と、稲尾の全盛時を知るひとりとして思うのだ。

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2005年11月25日

白球の視点 第183回

 秋晴れの“勤労感謝の日”11月23日、ヤクルトの古田新監督にいわせると「私たちには“ファンに感謝する日”」、6球団の「ファン感謝デー」。それぞれ多くのファンが球場にかけつけて選手との交流を楽しんでいたようで、それはそれで結構なことなのだが、ひとつ顔をしかめたのは、巨人の若い選手が、テレビの“おふざけ番組”に出ている芸能タレントのコスチュームでグラウンド内ではしゃぎまわっていたシーン。「ファンとの無邪気な交流シーンを楽しめばいいじゃないか。なにもそんなに目くじらたてなくても……」といわれるかもしれないが、私には“この男たち、何を考えているのだろう”という不快感だけが残った。

 見るも無残な負け方でテレビ視聴率も、落ち球場への足も遠去かりつつあったシーズンの“ファンに感謝する日”のファンへの対応姿勢がそんなことであっていいのかという思いだけが残る。

 ファン感謝デーの中で、テレビ画面で見ただけなのだが、ジンときたのは、広島の「たる募金」の市長への贈呈式だった。広島市民球場の建て替え資金を集めた「たる募金」。球団創設期、資金難で球団運営ができなくなるというとき、球場前に置いた樽(たる)の中に、観戦にきた広島市民が1円、2円、3円……となけなしの小遣いの中から球団存続を願って投じた募金。それが「たる基金」の始まりだ。広島市は、2009年開幕までにJR広島駅東側の貨物ヤード跡地に新球場を建設する計画を進めているという。その一助にでも……というファンの浄財は1億円を超えたと報道されている。

 カープという球団の長い苦闘の歩みについては、ずっと見聞きしてきて、ひとりで「カープ、くじけるな」と応援してきた。他チームでFA権を得た選手になど見向きもせず、自チームでFA権を得て他チームに移りたいといっても大金を積んで引き止めようともせず、球界では評判の猛練習でファームの若者を鍛えあげて一軍公式戦での“晴れの日”をじっと待つ。かつて黄金時代を築いたチームであるからこそ、そういうカープにもう一度、栄光の座に……とずっと祈ってきた。

 巨人の会長が最近のあちこちのインタビューに答えて、“政財界の大物からカープを売る相談を受けたが断わった”という趣旨のことを語っている。そう、いまこそ球界をあげてカープのような球団を守っていかなければならない時代なのだ。

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2005年11月16日

白球の視点 第182回

 4年契約で日本円にして50億とか60億とかいわれて「松井、ヤンキースに残留」というニュースに並んで、ソフトバンクの城島捕手に2年契約で9億円を上回る条件を提示した球団が現れたという外電。両選手にはなんとも景気のいい話で「これでは日本の選手がわれもわれもとアメリカを目指すわけだ」と顔をしかめた人がいた。

 西武の松坂大輔投手はポスティング・システムによるメジャー・リーグ入りをまだあきらめたわけではないと「週刊朝日」のインタビューで語っているし、阪神・井川慶、ヤクルト・石井弘寿投手も意欲満々、球団と粘り強く交渉を続けるというし、今度は日本ハムの入来祐作投手まで球団の了承を得てメジャーに挑むという。その意気や壮、というところだが、こういう“われもわれも”といったメジャー・リーグ志望は、松井秀喜や城島健司による刺激ではないと思っている。

 ひそかに私が推測しているのは、大家友和投手の存在だ。

 渡米する1年前(98年)、横浜では一軍公式戦に2試合しか登板していない(それも2イニングで被安打2、自責点2という成績だ)。横浜での5年間で1 勝2敗の投手が、レッドソックス、エクスポズと渡って02年は13勝8敗、03年は10勝12敗、エクスポズがナショナルズになった今季、10試合登板で 4勝3敗というところでシーズン中のトレードでブリュワーズへ。そこでメジャー初完封を含む7勝6敗。計11勝9敗。外電によれば、球団は新年俸として 400万ドル(約4億4000万円)を提示したという。推定年俸450万円でプロ(横浜)入りした男が、その100倍もの大金をつかんだのだ。

 大家は、自分から球団に頼み込んで自由契約の身にしてもらっての渡米だった。そこがすごいと思う。

 もうひとつ、大家投手に関して関心するのは、稼いだお金で「大家ベースボール・クラブ」を作って少年たちの野球指導を続けていることだ。あまり大きく報じられていないが、年々参加する少年たちも増えているという。野茂英雄投手が社会人野球選手に手をさしのべれば、こちらは野球を通じて少年たちの夢を育むお手伝い。このふたりのメジャー・リーガーの、日本の野球振興にかける情熱はもっともっと評価していい。

 さて、いま、そしてこれからもアメリカへアメリカへとなびこうとしている選手たちには、大家のような志があるのだろうか。

 あるなら行くがいい。

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2005年11月09日

白球の視点 第181回

 「欽ちゃん球団」と呼ばれる茨城ゴールデンゴールズに刺激されたのか、全国各地に次々と地域密着の新しいクラブ・チーム誕生のニュースに心温まる思いである。

 歌手の山本譲二さん(甲子園を目指した高校野球選手だった)が主宰する「山口きららマウントG」には、先に永久追放処分が解除され復権を果たした池永正明さん(下関商出身)が監督に就任、「佐賀に硬式野球のクラブチームがないのが寂しい」と元西武―日本ハムの新谷博さん(94年の最優秀防御率投手)が名乗りを上げれば、「佐賀に負けておれん」と元ヤクルト―日本ハムの中村国昭さん(津久見高出身・内野手)が大分出身の大ヒーロー、稲尾和久さんの助力も受けて「大分SOLINS」を立ち上げ「九州のクラブ・チーム同士で戦いたい」という。すると今度は今シーズンまで広島のピッチング・コーチだった安仁屋宗八さんが故郷・沖縄に「安仁屋ベースボールクラブ」を作るという。

 関東でも、元中日の首位打者・谷沢健一さんが「谷沢野球コミュニティ千葉」の選手募集を始めれば、次は前国会議員でタレントの森田健作さんが「千葉メイキング」(仮称)というチームを作ると宣言した。驚いたのはプレイング・マネジャーになるという元毎日(大毎)―阪神―広島の若生智男投手、今年で68歳になるがなおも登板して率先、若い選手を引っ張るのだという。

 それぞれのチームの成功と発展を祈るばかりだが、巨人戦のテレビ視聴率が落ちて野球人気そのものが下り坂というような言い方をする人がいるが、どうしてどうして、こういう動きをみると、野球人気は“落ちてる”どころか全国に穏やかにではあるが深く濃く浸透していることがよくわかる。

 この7日、東京ドーム内の野球体育博物館・殿堂ホールで行なわれた「戦没野球人慰霊碑」の除幕式に招かれ参列のあとの食事会で、テーブルが一緒になった関根潤三さんが、野球に夢中になりはじめた少年時代の話をしてくれた。

「まだ日大三中の控え投手だった頃、戦前の巨人の合宿があった多摩川のグラウンドで練習試合をしていたら、一度軍隊から帰ってきた沢村(栄治)さんが通りがかってね、私を呼びとめ“キミ、なかなかいいぞ”って声をかけてくれた。“よし、いい選手になろう”と勇気を持ちはじめたのはそれからですよ」

 少年・関根にとって、当時のトップスター・沢村の声は、まさに「神の声」だった。そうやって、殿堂入りを果たすまでになった「野球人・関根潤三」は生まれた。

 全国に続々、出現している新しい野球チームに夢を抱いてとび込んで行く若者たちにもすばらしいドラマが生まれるように祈っている。

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2005年11月04日

白球の視点 第180回

 来シーズンの野球について、いまから気になってならないことがある。話題の“なんとかファンド”とか“楽天とTBSの戦い”では、ない。いま各地のプロ球団の秋季練習で「いったいどうなるのか」議論沸騰している「投手の2段モーションが反則投球になるということだ。

 ノーワインドアップ投法で両手が一度止まるといわれる巨人・上原とかワインドアップ投法でグラブが頭上で停止するという中日・川上とか、どのチームもエース級がズラリ“疑惑の対象”になっている。

 「子供の頃からずっと、いまのフォームでリズムをとっていたのに、いまさらやめろといわれたって」と当惑している中日のストッパー、岩瀬の例をみても、個性派投手の生命も脅かしかねない。

 ソフトバンクの王監督が「かつて抜群の一塁牽制で走者をよく刺していたのにルール変更で牽制アウトをとれなかった江夏投手」を例に出していたが、近鉄時代の阿波野投手が一度、一塁牽制をボークにとられて以後、リズムをこわしてしまった例もある。だが今度は「一塁牽制球」ではない。岩瀬投手のように、少年時代から慣れ親しんできた打者への投球スタイルを直さなければならないとしたら、これはもう死活問題といっていい。

 これまでもときに話題になった一度あげた足を止めたり上下させたりする下半身の動きだけでなく、腕の動きが止まってもいけないというが、そもそも“一瞬の停止”とは、どういう“停止”なのか、そこに“ある一定の線びき”ができるのか。

 秋季キャンプに参加した審判員の間でもマチマチだったり、中には困惑を隠さない審判員もいるという。「いまのままなら(基準がわからないのだから)審判も可哀想」と皮肉るピッチングコーチもいたが、「一度、全審判団が集まってしっかり話し合わないとどうしようもない」という審判もいる。

 いや、審判員だけのせいにはできない。今度のことは「国際慣例に従う」ということで実行委員会で決めたことだ。果たして「2段モーションとは何か」を、全球団代表から、もっといえばコミッショナーも含めた全球界幹部が集まってあらためて協議する必要がある。

 この問題を、あやふやなままにしておけば、来シーズンのグラウンドでとんでもないことが起きるぞと、いまから警告しておこう。

posted by 田村大五 |00:00 | 第161回~第180回 | トラックバック(0)
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2005年11月01日

白球の視点 第179回

 スポーツ紙のプロ野球担当記者として、千葉ロッテ・マリーンズの前身、毎日オリオンズ担当でスタートした身には、05年のロッテの日本シリーズ制覇にいささかならない感慨があった。MVPに選ばれた今江といい、タイガース打線を寄せつけなかった投手陣といい、あの屈託のない明るさは、どうだ。ビールをかけあってハシャぎまわる05年の若い選手たちをテレビ画面で見ながら、このチームの波乱万丈の歴史を思った。

 そもそも第1回の日本シリーズの覇者が毎日オリオンズだった。第1戦の勝利投手がハワイ生まれの“ボゾ”こと若林忠志投手。戦前のタイガースのエースであり兼任監督のときもあった。タイガースといえば、2リーグ分立のとき、ホームラン王になった別当薫らタイガースの主力選手がごっそり新生・オリオンズに走って、それがタイガースへの同情論になり、“強いオリオンズ”への反発を招いたともいわれた。

 タイガースとの因縁は、まだある。1936年、「ロッテ」となる前、「東京オリオンズ」を名乗っている頃、「世紀のトレード」といわれた4番打者・山内一弘とタイガースのエース・小山正明との交換トレード。野球への情熱をたぎらせながらも晩年、事業に失敗して挫折した悲運のオーナー・永田雄一がみずから大阪へ出向いて交渉したものだった。東京スタジアム建設からロッテへの身売り。球場内の会議室に全選手を集めて声涙くだる別れのあいさつには、同席してもらい泣きしたものだった。

 金田正一監督になったとき、“仙台が本拠地”といいながら自前の球場がなく流浪の旅また旅。74年、やっと“日本一の座”をつかみとったら、そのときが「巨人・長嶋茂雄引退の日」で話題をそっちにとられてしまった。

 川崎球場に腰を落ち着けてからも、いい試合をするのだが客が集まらず、記者席からよく「ヒトリ、フタリ……」と数えてみたものだった。落合博満の三冠王達成があったり、90年の村田兆治の引退の日は川崎駅から球場まで人、人、人であふれ、それだけで感動した。

 92年、千葉に本拠地を移してからも、95年の1年だけでバレンタイン監督で2位になっただけ、あとは6位、5位、6位……。球団の赤字額が大きく宣伝され、昨年は「1リーグ制論議」の中で合併論がまことしやかに伝えられた。そこからの立ち上がり。そこに注目したい。

 フロント陣の血の入れ替え、地域ファンとの濃厚な結びつきは、これまでの日本プロ球界には見たことがないユニークな色彩があった。「合併」まで取沙汰された球団が、ここまで生まれ変わった、その道程を、いまこそあらためて球界あげて見直し、参考にすべきではないか。聞けば、選手の総年俸は巨人の半分にも満たないという。それでいて、あの明るさ、攻守ともに攻撃性に満ちた溌剌さ。

 パ・リーグは、ひとつの“光”を得た。

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