2003年03月26日
編集部からの要請で20年ぶりに「プロ野球人国記」の改訂版を長期連載することになり、先週から各地をとびまわって調査、取材をつづけている。急に決まったことなので、原稿締切り日はすぐやってくるし、あわただしいことこの上ない。
20年前の「人国記」のときは、各県出身のプロ野球選手、ひとりひとりをじっくり調べ、一軍公式戦に1試合も出場していない選手でも、とにかく「プロ野球の門」をくぐった選手はほとんどすべて網羅したから、そのときプロ野球50年間、選手数の多い大阪や東京、神奈川、兵庫など一県に4週間から5週間を費やした。大変な作業だったが、一面、それは野球好きにとっては楽しい作業で、約5年間の連載はたっぷり「人国記」の世界にのめりこんだものだった。
だが、今度は「原則として一県一回」という編集長の命令。出身選手の少ない県はいいのだが、今度はプロ野球70年、数百人に及ぶ選手を輩出している「野球県」になると、どうしぼって書くか、頭が痛い。まして私は「ワキ役」が好きなタイプ。ヒーローになることは年に数試合しかないが、そのチームにとってはなくてはならない、いうところの“イブシ銀タイプ”。20年前の「人国記」では、そういう選手のことをじっくり書き込むことが、ひとつの目的でもあった。だが、「一県一回」となると、そんな“遊び”ができなくなるので緊張している。
それにしても、調べれば調べるほど、人間社会はどの世界でも同じことだが、人と人のまじわりの意外性に驚かされる。今度も「第1回は鹿児島県」という編集長命令で鹿児島・川内に出かけたら、なんと、早くも「サンデー登板」とか「次代のエース」の評価さえあるルーキー・木佐貫投手の故郷が、このところの巨人のエース上原浩治投手の母親の故郷であることがわかってびっくりした。
鹿児島でいえば、本文では書ききれなかったが、かつての大投手、江夏豊さんの祖先の地でもあると聞いた。そういう野球選手のルーツを追って行くと、ときに思いもかけないドラマに出会って、ペナントレースの興味が倍加することがある。若者がどんどん出てきたとき、“次のドラマ”に期待して開幕を待っている。
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第81回~第100回 |
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2003年03月19日
鹿児島・川内高校野球部の中迫監督から“ちょっといい話”を聞いた。同校の卒業生、いま話題の巨人のルーキー・木佐貫洋投手が学校に招かれ話をした。その話の内容のことだ。
高校野球時代からプロ垂涎の的だったほどだから、木佐貫にはそれなりの自信があった。大学(亜細亜大)へ進んでもトップ・レベルで投げ続けられるだろうと思っていた。だが故障もあって挫折、大きな壁に突き当たってしまう。「一度は野球をやめようと考えたほど悩んだ」のだという。木佐貫は大学時代の成功談(たとえば4年生になって春夏連覇の立役者になってMVPに輝いたときの自慢話とか)を語るのではなく、自分の考え方が甘かったと、素直に吐露したという。
「野球をやめようとまで思いつめたことなど初めて聞いたことで驚きました。彼は、そういう苦境を自力で乗り越えて大きくなったんですね」
先にこの欄で、投手にしても打者にしてもそれぞれ実力のある、いわゆる“松坂世代”といわれる選手が各チームに大量に入ってきて、お互いに強く刺激しあって西武・松坂大輔投手が大活躍をみせてくれそうな予感がすると書いたが、オープン戦のピッチングを見て、いよいよそれが現実のものになっていると確信した。
松坂も昨年、心身ともに大きな傷を負った。それがいかに松坂を駆りたてたか、オフからこれまでの言動をみればわかる。
やはり“同期のライバル”とはいいものである。ONを“山頂”として、これまで多くのライバルの切磋琢磨を見てきたが、それが5の力を8にし、8の力を 10にした。野茂英雄と与田剛が両リーグの新人王になった年、そのライバルたちの名前は、いま思い出してもタメ息が出る豪華なものだった。佐々木主浩、佐々岡真司、潮崎哲也、岩本勉。
私生活で仲の良い中日・川上憲伸と巨人・高橋由伸が激しく新人王を争った年も、投手では広島・小林幹英が力投を続けたし、打者では阪神・坪井智哉が高橋を上回る打率.327で打撃ベストテン3位に入る大健闘をみせたものだ。
「あいつには負けたくない」というて敵愾心がいいプレーにつながる好例だ。“松坂世代大活躍”の予感、当たってくれ。
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第81回~第100回 |
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2003年03月10日
プロ野球審判団のストライキ宣言(いろいろの問題はあるが”困ったものだ”というのが実感だ)、ダイエー・小久保裕紀の重傷(それもベテランは休んでもいいというのに「同リーグの投手を打っておきたいから」と自ら志願しての出場だったというからよけい痛々しい)、大塚晶文投手が近鉄のイヤーブックから写真も紹介記事も消えてしまった同じ日にオリックスのストッパー・大久保勝信投手の「今季絶望」という右ヒジ手術――と、どうにもつらい話題がつづいていたとき、ホッと心がなごんだのが、ドジャース・野茂英雄投手が自分の資金を注ぎこんで大阪・堺に「NOMO・ベースボール・クラブ」を設立、「野球をやりたくてたまらないが、どこでどうやってやればいいかわからない青少年」に手をさしのべたというニュースだった。
日本人選手のメジャー入りのパイオニアとなった男が、今度は日本の野球の底辺に目をむけ、自費で野球の振興に手を貸そうという、その心意気がいい。
野茂投手とじっくり話し合ったことはあまりなかった近鉄在籍時、村田兆冶さんと遠征先のホテルで2時間ばかり話しこんだときに、思わず野茂投手の顔をみつめなおした言葉に出会ったことをいまも記憶している。彼は、こういった。
「ぼくは、どんなに三振をたくさんとろうと、タイトルをいっぱいとろうと、いや、とるたびに野球の原点、投手の原点ってなんだろうと考える」。
野茂投手にとって「野球」とは、プロで有名になる前の、ただただ夢中にのめりこんでいた少年時代、青年時代のものだったようだ。だからいま、不況で次々に野球部の休、廃部がつづいている社会人野球の選手をはじめ「野球をやりたくてもどこでどうやっていいかわからない青少年たち」を黙って見ていられなくなったのかもしれない。
すでにアメリカの独立リーグ「エルマイラ・パイオニアーズ」の共同出資オーナーとして日米の若者たちに手をさしのべている野茂投手の、一種、「壮挙」といっていい試みの成功を祈るや切、だ。
posted by 田村大五 |00:00 |
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2003年03月05日
テレビ観戦ではあったが、3月2日、福岡ドームでのダイエー-巨人のオープン戦は、新垣、木佐貫両ルーキー投手のピッチングを見ているだけで“充実した時間”を味わうことができた。
「ルーキーが素晴しいプレーをみせてくれたとき、私は大きな希望と心の安らぎを感じます」とメールをくれたのは神戸の森牧名さんだった。「巨人の4番打者の座」を去り「ヤンキースのマツイ」になったバッティングを、NHKがメインの午後7時のニュースで連日「全打席報道」という昨今、日本のコミッショナーまでが「(横浜の)古木とか(中日の)桜井とか、日本のヤング・パワーにも注目してもらいたい」というほどの、私にいわせれば“野球報道の偏重”(松井が打ったりイチローが打つと、オープン戦だというのに、いくつかのスポーツ紙では1面トップから2面、3面まで全部、メジャーの日本人選手の記事で埋まる)がつづいている日々。
私だって、たとえオープン戦とはいえ松井秀喜の1打席1打席が気になっているし、たとえばアメリカ2年目の田口壮の日々の動きも気になっている。だからといって、スポーツ紙の1面、2面、3面全部がメジャー・リーグの記事という現象には、いささかマイッている。“日本プロ野球だって頑張っているのに”という思いがあるからだ。
たとえば、最近のダイエー・城島健司捕手。地元の報道ではどうだったのかは知らないが、東京のスポーツ紙では4面から5面に小さく載っていた「座ったまま二塁送球する城島」に強い興味をもっていた。たまたま西武関連の仕事で高知へ飛んだとき、翌日、あえてダイエーのキャンプ球場を訪れたのは王監督へのあいさつもあったが、その「座ったまま二塁送球する城島」を確認したかったからだ。
本当だったどころか、紅白戦前の若手捕手と一緒のシート・ノックのときから彼は常に二塁送球のときは座ったまま、右ヒザをついて二塁へ全力投球をつづけていた。長い間、キャンプ練習を見てきたが、こんな捕手の二塁送球を見たのは、はじめてだった。それが福岡ドームでの異例の「有料紅白試合」で見事に実を結び、スタンドがどよめいた。静岡の中野さんは「往年のサンディアゴを思い出しました」というメールをくれた。見ている人は、見ている。
前述の神戸の森さんは、メールのあとに、こう書き足している。そのことに私も頭をさげる。
「野球を好きになれたことは、私の人生最高の財産。私に野球を遺産として残してくれた父に心から感謝しています」
ジンとくるではないか。
posted by 田村大五 |00:00 |
第81回~第100回 |
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