2005年11月04日
来シーズンの野球について、いまから気になってならないことがある。話題の“なんとかファンド”とか“楽天とTBSの戦い”では、ない。いま各地のプロ球団の秋季練習で「いったいどうなるのか」議論沸騰している「投手の2段モーションが反則投球になるということだ。
ノーワインドアップ投法で両手が一度止まるといわれる巨人・上原とかワインドアップ投法でグラブが頭上で停止するという中日・川上とか、どのチームもエース級がズラリ“疑惑の対象”になっている。
「子供の頃からずっと、いまのフォームでリズムをとっていたのに、いまさらやめろといわれたって」と当惑している中日のストッパー、岩瀬の例をみても、個性派投手の生命も脅かしかねない。
ソフトバンクの王監督が「かつて抜群の一塁牽制で走者をよく刺していたのにルール変更で牽制アウトをとれなかった江夏投手」を例に出していたが、近鉄時代の阿波野投手が一度、一塁牽制をボークにとられて以後、リズムをこわしてしまった例もある。だが今度は「一塁牽制球」ではない。岩瀬投手のように、少年時代から慣れ親しんできた打者への投球スタイルを直さなければならないとしたら、これはもう死活問題といっていい。
これまでもときに話題になった一度あげた足を止めたり上下させたりする下半身の動きだけでなく、腕の動きが止まってもいけないというが、そもそも“一瞬の停止”とは、どういう“停止”なのか、そこに“ある一定の線びき”ができるのか。
秋季キャンプに参加した審判員の間でもマチマチだったり、中には困惑を隠さない審判員もいるという。「いまのままなら(基準がわからないのだから)審判も可哀想」と皮肉るピッチングコーチもいたが、「一度、全審判団が集まってしっかり話し合わないとどうしようもない」という審判もいる。
いや、審判員だけのせいにはできない。今度のことは「国際慣例に従う」ということで実行委員会で決めたことだ。果たして「2段モーションとは何か」を、全球団代表から、もっといえばコミッショナーも含めた全球界幹部が集まってあらためて協議する必要がある。
この問題を、あやふやなままにしておけば、来シーズンのグラウンドでとんでもないことが起きるぞと、いまから警告しておこう。
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第161回~第180回 |
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2005年11月01日
スポーツ紙のプロ野球担当記者として、千葉ロッテ・マリーンズの前身、毎日オリオンズ担当でスタートした身には、05年のロッテの日本シリーズ制覇にいささかならない感慨があった。MVPに選ばれた今江といい、タイガース打線を寄せつけなかった投手陣といい、あの屈託のない明るさは、どうだ。ビールをかけあってハシャぎまわる05年の若い選手たちをテレビ画面で見ながら、このチームの波乱万丈の歴史を思った。
そもそも第1回の日本シリーズの覇者が毎日オリオンズだった。第1戦の勝利投手がハワイ生まれの“ボゾ”こと若林忠志投手。戦前のタイガースのエースであり兼任監督のときもあった。タイガースといえば、2リーグ分立のとき、ホームラン王になった別当薫らタイガースの主力選手がごっそり新生・オリオンズに走って、それがタイガースへの同情論になり、“強いオリオンズ”への反発を招いたともいわれた。
タイガースとの因縁は、まだある。1936年、「ロッテ」となる前、「東京オリオンズ」を名乗っている頃、「世紀のトレード」といわれた4番打者・山内一弘とタイガースのエース・小山正明との交換トレード。野球への情熱をたぎらせながらも晩年、事業に失敗して挫折した悲運のオーナー・永田雄一がみずから大阪へ出向いて交渉したものだった。東京スタジアム建設からロッテへの身売り。球場内の会議室に全選手を集めて声涙くだる別れのあいさつには、同席してもらい泣きしたものだった。
金田正一監督になったとき、“仙台が本拠地”といいながら自前の球場がなく流浪の旅また旅。74年、やっと“日本一の座”をつかみとったら、そのときが「巨人・長嶋茂雄引退の日」で話題をそっちにとられてしまった。
川崎球場に腰を落ち着けてからも、いい試合をするのだが客が集まらず、記者席からよく「ヒトリ、フタリ……」と数えてみたものだった。落合博満の三冠王達成があったり、90年の村田兆治の引退の日は川崎駅から球場まで人、人、人であふれ、それだけで感動した。
92年、千葉に本拠地を移してからも、95年の1年だけでバレンタイン監督で2位になっただけ、あとは6位、5位、6位……。球団の赤字額が大きく宣伝され、昨年は「1リーグ制論議」の中で合併論がまことしやかに伝えられた。そこからの立ち上がり。そこに注目したい。
フロント陣の血の入れ替え、地域ファンとの濃厚な結びつきは、これまでの日本プロ球界には見たことがないユニークな色彩があった。「合併」まで取沙汰された球団が、ここまで生まれ変わった、その道程を、いまこそあらためて球界あげて見直し、参考にすべきではないか。聞けば、選手の総年俸は巨人の半分にも満たないという。それでいて、あの明るさ、攻守ともに攻撃性に満ちた溌剌さ。
パ・リーグは、ひとつの“光”を得た。
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2005年10月18日
パ・リーグ、プレーオフの第2ステージは終始、ハラハラドキドキの連続だった。1球1球に大きな意味が含まれている感じで、1球たりとて目を離せなかった。テレビ観戦だったので、もう次の攻撃が始まっているはずなのに、いつまでもCMが続いているときはイライラした。短期決戦ならではの緊張感だった。
第3戦の9回裏、ロッテ・ナインが“さぁ胴上げだ”とベンチ前に身を乗り出したところからソフトバンク・ホークスの逆転劇にも、たっぷり“野球”がつまっていた。現場にいた記者に訊くと、ベンチ裏では表彰式の準備も始まっていたという。その話を聞いたとき、47年前の福岡・平和台球場の日本シリーズ、西鉄-巨人戦、巨人3勝1敗のあとの第5戦を思い出した。巨人が3対2とリードしていた9回、いまはなき平和台球場ベンチ裏の狭い通路で表彰式の準備が始まった。それを見た西鉄ナインが発奮して球史に残る大逆転劇が始まったのだが、そのとき現場にいてその情景を見ていた私の耳奥にはいまなお、コトコトコトコトという机を運ぶ音が残っている。
西鉄は、それを機に一気に日本シリーズ制覇へと突っ走るのだが、今度はロッテは2勝2敗と逆王手をかけられたプレッシャーを払いのけ、31年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。勝った試合でも負けた試合でも、ロッテ守備陣の好守に感心した。“攻撃的守備”とでもいったいいのか、西岡や今江の動きには唸(うな)った。このプレーオフ、初めて二塁を守った早坂まで(といった失礼だが)果敢な攻撃的守備をみせた。日頃の鍛錬のほどがしのばれた。
並んで見ていた、あまり野球にくわしくない家人が「ロッテにはこんなにすばらしい選手がそろっていたのねぇ」と西岡や福浦を見てつぶやいていたが、強力投手陣や里崎、橋本両捕手を含め“よくここまで鍛え上げたものだ”とバレンタイン監督以下スタッフに敬意を表したい。
だが、それにしても……。
敗戦が決まったあとのソフトバンク・王貞治監督の顔は見ていられなかった。ホント、公式戦136試合の戦いは何だったのだろう。前年も同じ悔しい思いをしたのが「リーグで決めた(システム)ことだから」と恨み言はいわなかった王監督も、さすがに今度は“待ち時間の長さ”をなんとかできないかと、このシステムの再点検を訴えた。パ・リーグ会長が再点検を示唆したのも、王監督の訴えに一理ありとみたからだろう。
ロッテのリーグ優勝にケチをつけるのではない。現行プレーオフ制をなんとかしなければ“王監督の悲劇”はなおも続くと考えられる。リーグあげて知恵をしぼってもらいたい。
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2005年10月07日
高校選手対象のドラフト会議で、「ハズれクジ」を「当たり」として場内放送までしたドラフト史上初めての大失態のとき、テレビ画面を通じてではあったが福岡第一高・陽仲壽内野手の顔を見ていられなかった。「交渉権はソフトバンクに」というときの、“感激”というものだろう、タオルで顔を覆うほどの涙、また涙。一転、「交渉権は日本ハム」となってからの痛々しい応答。あらためてドラフト制の非常な一面をみせつけられた思いだった(5日付のスポーツ紙で「一夜明け、明るく元気になった」という報道みてホッとしたが)。
これまでも何人も、指名された球団が意中の球団ではないということで泣いた選手を見てきた。入団を断わった選手もいたが、中には「同じプロ野球でやるんだから」とけっきょくは笑顔で契約、そのチームの主柱になった選手もいる。そういう選手には、いつも「よかったね」と激励することにしていた。入団前は、意中の球団ではなくてもプレーを続け、第一線に出るようになって成績をあげているうちにそのチームに愛着をもちプロ野球選手であることの喜びを感じるようになった青年が愛(いと)しいのだ。
だが今度、ソフトバンク→日本ハムと交渉権の行方がグラグラして戸惑っている陽選手の顔を見ていて、まったく別の立場にいた高校野球選手のことを考えていた。
今年「プロ入り志望届」を提出していた高校野球選手は112人、いた。その中からプロ側が指名した選手は昨年(24人)より多かったとはいえ38人である。残り83選手の気持ちはどうだったのか、という思いだ。“なんとしてもプロでやりたい”と本人はもちろん痛切に思い、おそらくその地区地区ではとびきりの才能をもっているであろう選手たち、学校側も家族も、友人知人たちもジッとドラフト会議の行方を見守っていたはずだ。だが83人は、ついにどの球団からも“お呼び”がかからなかった。つらい思いをしているだろうな。
かつては「ドラフト外入団」という制度があった。ドラフト会議が終わったあと、指名からハズれた選手の中からあらためて選んで入団させてもいいシステム。
その中から、ずいぶんいい選手が育った。いや“ずいぶんいい選手”などというレベルではない。巨人-中日・西本聖、広島・大野豊、西武-ダイエー・秋山幸二……などプロ野球史に名を残すトップスターも「ドラフト外入団の高校卒選手」だった。ドラフト会議で指名されなくても、これだけの好素材の選手がいるのである。
83選手を救う手は、ないのか。
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2005年09月28日
西武ライオンズが勝てば、ソフトバンク・ホークスと千葉ロッテ・マリーンズが最終的に同率になる可能性があり、2チーム同率なら「3位・西武」のプレーオフ参加はなくなってしまうという25日の西武-ソフトバンク20回戦は、なんとも奇妙なものだった。
まさか、こんなケースが現実に生まれるとは想定しなかった試合規定だろうが、それにしても「(プレーオフに出場するため)負けたほうがいい」というムードの中で試合をするというのは、奇妙というより、「おかしなもの」といわざるを得ない。パ・リーグ関係者は、このことをもっと深刻に考えてほしい。
昨年のパ・リーグのプレーオフが第一ステージから熱戦続きで多くのファンが「面白かった」と好評だったことからあらためて見直されたシステムだが、楽天の次期監督に就任するという(28日現在)野村克也氏が、問われて「王監督の腹の中は煮えくりかえっているだろうな」と答えたように、プレーオフ制さえなかったら「リーグ優勝-胴上げ-ビールかけ」とにぎやかな“お祝い”で湧いただろうに、プレーオフ制があるばかりに「単独1位」という呼称でひっそりしたものだ。長いペナントレースでの輝ける足跡はいったい何だったのだろうかという思いがあるはずだ。
まして、9年ぶりに負け越し、単独1位チームに23ゲーム差を離されて(9月28日現在)勝率5割に満たず(.489)、「負けたほうがプレーオフに参加できる」というチームとあらためて戦かって雌雄を決しなければならないとは。
早くも一部で声があがっているようにこの不自然なシステムは徹底した再検討が必要であると考える。
かつて、長いペナントレースの最後の1試合で“1勝”をめざす緊迫に満ちた決戦を何度も見てきたが、それに比べ「88勝45敗2分け」のチームと「66勝69敗」のチームの“決戦”とは、なんともシラけてしまう。
さらに西武ライオンズにひと言つけ加えるなら、その試合から首位打者をめざす和田一浩選手を休ませてしまったこと。ちょうどその日の朝のスポーツ紙で、ロッテのバレンタイン監督が自分の選手時代の経験をもとに「和田よ、出場しよう」と呼びかけていただけに、日本球界特有の、過去に何度もあった“打率維持のための欠場”を堂々と?やっていることがなんとも悔しかった。
快調に打ち続ける和田のバッティングは、いまの西武の“みどころ”のひとつだろう。そういう“みどころ”を客の前で隠してしまおうとは、ファン無視の体質、ちっとも変わっていないではないか。
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2005年09月15日
ヤクルト・青木宣親選手の連日の快打を見るにつけ、ひとり、わが身を悔いている。以前は、それが楽しみでヒマさえあるとイースタン・リーグ観戦に出かけていた(自宅がジャイアンツ球場に近くサンダル履きで気軽に出かけられるということもあって)のだが、昨年は「イースタン観戦」がほとんどできなかったという悔いだ。青木は、昨年のイースタン・リーグの首位打者(.375という高打率だ)。そのバッティングの成長過程をずっと見続けていたら、今季の一軍公式戦でバッティングを見る興味がさらに増しただろうに……と悔やむのだ。
そこで05年のイースタン・リーグを見てみれば、打者で断然トップを走っているのがインボイス(西武)の後藤武敏。横浜高校時代の松坂の同期生。そうだ、一昨年は伊原監督(当時)の意表をつく起用で公式開幕戦でルーキーで4番の座にすわった男だ。めげずに頑張っているところが、いい。ホームラン打者は……と見てみれば、ロッテのルーキー・竹原直隆が20本塁打(記録はいずれも9月12日現在)と他を圧している。打率も後藤(.358)に次ぐ. 327。社会人時代から定評のあった長打力にさらに磨きがかかっている。一軍で大活躍の自分より若い今江敏晃や西岡剛が刺激になっているのかもしれない。
そういう一軍とのつながりで見ていくと、ウエスタン・リーグで早々と優勝を決めた阪神のルーキー赤松真人外野手。ファームの両リーグ最高率の打率. 367に盗塁がまた他の追随を許さない29盗塁。タイガースで「赤」といえば、いまや他チームに対抗馬も見当たらない、5年連続盗塁王を目指す人気の赤星憲広だが、「2代目・赤」も好打快足で一軍公式戦の出番を“いまかいまか”と待っているところだ。タイガースは、ちゃんと“次”を用意していることが、このことだけでも、わかる。
“他チームの4番打者”を次々にかっさらってきて失敗、ようやく若手(といっても30歳に近い選手が多いが)を使いはじめた巨人は、イースタンでも後手を行っている。かつては、そうではなかった。いま、“次の首脳陣?”と噂されている中畑清、篠塚和典、吉村禎章、斎藤雅樹といった人たちは、いずれもファームでとことん鍛えられ、実績を作ってから一軍へ引き上げられ、チームの歴史は、そうやって作られていった。
いま、ファームを見ても、そのことが忘れられている気がする。
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2005年09月08日
スポーツ紙(関東)は連日、「巨人・星野監督」報道でにぎやかなことだ。両リーグともペナント争いのクライマックスにきているというのにとんだ番外劇、いやはやというところだ。
久しぶりに星野仙一さんと会って約2時間、話し込んだのは6月、「中日ドラゴンズ70年史」の取材で現役投手時代のドラゴンズの思い出を語ってもらうためだったが、主題が終わってあれやこれやのよもやま話になったとき、思わず「ホーッ」と声をあげ、あらためて星野さんの顔を見直した一瞬があった。タイガースを率いてリーグ優勝した03年当時の話。ペナントレース独走、2位以下をどんどん引き離していって、もう誰もが“優勝間違いなし”とみる「大独走」という状況になった。当時の星野監督が「もう心配で心配で、夜も眠れなくなった」というのは、その「大独走」に入ってからだというのだ。
「ホーッ、高枕で眠っていたと思っていたのに」という私のつぶやきに、星野さんが苦笑していうには「こんなに大差をつけて、ここからひっくり返されて優勝できなかったら日本中の笑いものになる、そう考えるともう怖くてね」。一見コワモテ、強気一辺倒にみえる星野仙一という人の一面を見た思いがしたものだ。
そういう人が、再びあえて挑むのか。
一方、「巨人・星野監督報道」を見ながら思っていたのは、その間ずっと試合を続けていた巨人・堀内恒夫監督以下の首脳陣と選手たちの胸中はいかばかりかということだった。いったい来シーズンから誰が指揮をとるのか、どういうチーム構成になるのか、わけがわからないモヤモヤした雰囲気の中での日々の試合。 “選手は自分のプレーに打ち込んでいればいいではないか”という人がいるだろうが、組織というもの、そうは割り切れない。
かつて「V9」で終わった巨人の“10年目”74年は先週も触れた中日=70勝49敗11分け、勝率.588、巨人=71勝50敗9分け、勝率.587 というシーズンだった。シーズン後、幹部のひとりが当時の川上監督にいった。「川上監督の退陣を徹底して秘密にしておくべきでしたね」。選手たちは早くから「川上退陣」を知ってしまって気持ちはもう次のシーズンへと行ってしまって“心の結束”が解かれてしまった、それが1厘差という結果にあらわれてしまったという悔いだった。
9月3日、4日の対広島戦に連勝したあと巨人・堀内監督は「やっといろいろな型の攻撃ができるようになった」という談話を残した。秋風が吹きはじめるいま、そういう談話を口にする状況が哀しい。
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2005年09月01日
ウカツながら、セ・リーグのアグリーメント(試合実施要項)第3条4項のことを忘れていた。恥しい。
「勝率1位球団が勝利数で同2位球団を下回った場合は、両球団間でプレーオフを行う」という取り決めのことだ。いま8月31日午後。甲子園球場での阪神-中日戦が雨天中止になった30日現在、阪神=68勝47敗5分け、勝率.591、中日=66勝48敗1分け、勝率.579だ。引き分けが多いぶん、阪神の勝率がグッと上回っているが、残り試合が中日の方が5試合多いから最終的な勝ち数はどうなるかわからない。全試合が終わってから“プレーオフ決着”となれば、これは大いに湧くことだろう。
この第3条4項は02年からの実施規定だから、もしそうなればセ・リーグ史上初のことになるが、実は過去に「勝率1位球団が勝利数で同2位球団を下回った場合」は、実施規定前に4度、あった。
最初は61年、優勝した巨人が71勝53敗6分けの勝率.569で、2位・中日が72勝56敗2分けの.562。中日・権藤博投手が大活躍(35勝)した年だ。次いで巨人・川上哲治監督最後のシーズン74年、今度は優勝した中日が70勝49敗11分けの.588、2位・巨人が71勝50敗9分けの. 587。勝率で1厘低かった巨人が中日より1勝多かった。星野仙一投手が15勝10敗10セーブで沢村賞、巨人・王貞治が2年連続打撃三冠王になった年だ。
3度目はまたも中日と巨人で、近藤貞雄、藤田元司両監督時代の82年。中日=64勝47敗19分け、.577に対し、巨人は2勝多い66勝50敗14分けで.569。中日・田尾安志がリーグ最多の174安打を放って最終戦に全打席敬遠で首位打者を逸した年、巨人では江川卓が19勝、松本匡史が61盗塁を記録した年で、中日の19引き分けが生きたケースだ。4度目は広島=73勝46敗11分け、.613に対して2位・巨人が75勝48敗7分けの.610の 86年。ここでも引き分け数の差が勝率に影響した。
阪神と中日がツバ競り合いを続けている、パ・リーグでもソフトバンク対ロッテの首位争いのほかに、「勝率5割に達しないのにプレーオフ進出とは」という批判はあっても「3位以内はプレーオフに進出という規定がある以上はなんとしても権利を行使したい」とムキになるオリックスと西武、日本ハム。メジャーのア・リーグのワイルド・カードの争いもしのぎを削る日々。いずれもペナントレース争いをなんとか盛り上げようという苦肉の策だが、もし実現するのだったら、全公式戦終了後の阪神-中日の“最終決戦”は見てみたい気になっている。
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2005年08月19日
ソフトバンク・斉藤和巳投手の開幕以来の13連勝(16日、対オリックス14回戦)は、66年の巨人の新人・堀内恒夫投手以来という。66年の巨人といえば、開幕の連敗から前半戦はもたついて巨人ファンをイライラさせたものだが、夏に入ってグングン勝ち進んで圧勝した、いわゆる「V9」の2年目。投手陣の中心が開幕から13連勝のルーキー・堀内で、その堀内が監督になっての2年目、投打ともに混迷が続いて早々とペナント争いから脱落してしまったのは歴史の皮肉というものか。堀内投手が第1回ドラフトの1位指名で入団した頃は打線の中心、王貞治ー長嶋茂雄の全盛期で、ふたりでチーム全打点の4割強をあげた(首位打者・長嶋、打点王・王)。もちろんふたりの活躍なしでの優勝は考えられないが、チーム打率(.243)、チーム本塁打(114本)ともにリーグ3 位という数字で圧勝に導いたのは、チーム盗塁数リーグ2位と3位の数を合わせても及びつかない148盗塁を中心にしたスピーディーな機動力だった。当時といまの決定的な差は、そこにあると、くどいほど主張してきたが、「史上最強打線」などと称しながらリーグ最低打率を続けてきて、"大砲"3打者がベンチから消えてからファームから上がってきた若い選手の動きで、あらためてそのことが浮かび上がってきたのも皮肉なことではある。
ソフトバンク・斉藤の13連勝の中で目立っているのは、斉藤が登場した試合における主力打者・松中とズレータの圧倒的な猛打だ。松中39本(16日現在)中、10本塁打が斉藤登板試合で、斉藤のときは打率・426もマークしているズレータも9本塁と絶妙の相性だ。この投打の噛み合いの良さが強チームのゆえんで、「V9巨人」がまさにそうだった。それにプラス走塁・機動力。それは今季の阪神、中日、ロッテなどペナント争いを続けている強チームの野球をみれば、いい。それが近年の巨人にほとんどみられなかったことが、いまの結果に結びついていることに幹部はどうして気づかなかったのか。不思議でならない。
ローズがベンチからいなくなって外国人打者がいなくなった打線、「なんでもありの打線で相手もとまどっているだろう」と堀内監督はいうが、入団わずか 1ヶ月で解雇したキャプラーと昨年でもう「用なし」と契約しなかったペタジーニ両選手がア・リーグ東地区でヤンキースを押さえて首位独走中のレッドソックスの先発メンバー入り。トップ打者と5番打者で連日よく打っているという外電に接すると、こちらも妙な気になってくる。
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2005年08月10日
プロ入り4年目、通算60試合目の初勝利が、球団初の完封勝利。楽天ゴールデン・イーグルスの有銘兼久投手。最後の打者を遊ゴロにうちとって試合終了というのになお、ロージンバッグを手にしたというあたりが初々しくっていい。開幕2戦目、あの0対26で大敗したときの2番手投手で一死もとれず5点を失い、防御率計算不能とかで「防御率無限大君」と呼ばれ、山形のファームで汗を流したあとの返り咲き。こういう野球人生ストーリーが好きだ。
「へこたれない気の強さが彼の武器」とは小野和義コーチの祝辞だったが、その小野も近鉄で投げていた時代、一度大きく落ちこんだがあきらめずに這い上がってカムバック賞に輝いた実績がある。今度は、コーチの立場でなかなか勝ち星をつかめない有銘に対して「あきらめるな、夢を失うな」と励まし続けたであろうシーンを想像しているうちに、有銘が初完封を記録した前日、「18歳・ダルビッシュに投げ勝った40歳・吉井理人」へと連想の世界が広がっていった。
風を計算した熟練のワザで負けなしの5連勝ピッチングを披露した40歳投手が試合後、「1球1球がすばらしい」と自分のことよりも「18歳・ダルビッシュ」のピッチングをほめ讃えたところがよかった。小野がドラフト1位、吉井が2位指名で84年近鉄入りの同期生。吉井が最優秀救援投手になったとき(88年)、小野は阿波野と並ぶ近鉄の左腕エース、吉井がヤクルトからアメリカへ渡って3チームで投げ続け、帰国してから戦力外通告を受け、かつての“師匠”仰木監督の手で甦るという激的な日々を送れば、小野は若い投手の台頭に力を貸す日々。そういう投手人生の交錯が、ペナントレースを彩るところに興味がある。
「40歳投手と10代投手の対決」といえば6月26日、西武-楽天10回戦の先発・涌井秀章-紀藤真琴があるがどちらも3回、もたなかった。勝敗でいえば95年5月31日、ダイエー・オリックス9回戦の吉武真太郎-佐藤義則以来。このときは19歳の吉武が40歳の佐藤に勝っている。その佐藤がいま、先に 40歳の吉井と対決したダルビッシュのコーチ、というのも因縁めいていて面白い。
吉井が6連勝と星を伸ばした翌日、有銘は首位ソフトバンク相手にまた完投で2勝目をあげた。チームの順位争いや個人の打率争いとは別に、さまざまなことがからみ合う、それぞれの野球人生に思いをめぐらしてペナントレースを楽しむ。テレビの視聴率が下がったとかで野球人気がどうのこうのといわれるが、私はそうは思っていない。テレビ視聴率でいえば巨人戦の視聴率が下がっただけの話で、地上波以外の、かつては考えられなかった多くのカードの中継が連日行われていて、そっちの視聴者が大幅に増えていることが看過されている。
技術論から人生論まで、「あらゆることがあてはまる」といわれるほどの野球談義は、今日も続けられている。この欄では、しばらく、吉井-有銘-小野ではないが、「05年の野球」と過去の野球の因縁話を語り継いでいきたい。
posted by 田村大五 |00:00 |
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