2004年03月30日
パ・リーグの開幕、西武-ロッテ戦の2回裏、中前へ抜ける西武同点のタイムリー・・・と思われた打球をダイビング・キャッチしたロッテ・小坂誠人のファインプレーを見たとき、“公式戦が始まったんだ”ということを実感した。
翌日は西武の、松井稼頭央の後継者と評判の中島裕之遊撃手の攻守にわたる活躍。福岡ドームからは連日、「若タカ・トリオ、大暴れ」という話が伝わってくる。吉本龍生、24歳。川崎宗則、23歳。井手正太郎、21歳。早くも満開になろうかという、通勤途中でみるお濠橋の桜花に見惚れるように、グラウンド上でハズむ若者たちの活躍を楽しませてもらっている。毎年恒例の、全試合の記録ノートをつけながら、どのチームも、たとえば“継投メンバー”などにずいぶん新しい名前が登場してくるようになったなと感じている。確実に時代の頁はめくられている。
東京地区は雨だった3月30日、傘をさしながら東京ドームへ歩きながら胸をときめかせ、“球場へ向かうときこんなに胸がときめくのは少年時代以来ではないか”と思った。デビルレイズ対ヤンキース戦。メジャーの公式開幕戦を、こんなに至近距離で見ることができるようになるとは。目の前でジーターやA・ロッドが、マルティネスやハフが声をあげ、打ち、走っている姿に、スコアカードに記入することも忘れて見入ってしまった。そういう時代に生きていた幸福を思った。
観客席もずいぶんサマがわりしていた。ジアンビーや松井のユニフォーム姿の青年や女性ファンが多かったことと、春休みに入ったからだろう、親子づれが多かったことが嬉しかった。そういうスタンドの現象で感じたのは、みんなが“真剣にプレーを見ている”ことだった。衣笠祥雄さんも朝日新聞に書いていたことだが、ときに左翼スタンド一角から“バンザイウエーブ”を起こしかけたが、呼応する人は少なく、すぐ止まってしまった。フィルディングにしても走塁にしても、わずかな動きを見落とすまいと見ているから、そんなパフォーマンスに応じているヒマはない、といった感じであった。
ときに満場がシーンとなって投打の対決をみつめ、豪快な打球が飛んだりファインプレーが出るとドーッと沸くスタンドの風景。それがまたすばらしく、日本の公式戦もこうであったらなぁとあらためて思ったものだった。
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2004年03月24日
「週刊ベースボール」3月29日号の「想い出球人」に登場した、元巨人のブルペン捕手から最初に長嶋監督になったときコーチに抜擢され日本ハムのコーチも長かった淡河弘さんが来社、近刊の「ジャイアンツ70年史」の頁をめくりながらさまざまな思い出話にふけった。
その中で特に驚いた話に、長嶋監督になって招いたアメリカ人選手第1号のデーブ・ジョンソン内野手のことがある。巨人期待の大リーガーは来日するとホテルの一室をあてがわれただけで誰も寄りつかない。あまり寂しそうにしているので、英語にたんのうな友人を連れて球場への送り迎えをはじめとする、サポートにつとめたこともあって、ジョンソンは淡河コーチになついた。そのジョンソンが球団の期待とは裏腹に肝心なところでどうにも打てない。マスコミは「ジョン損」(その後”トマ損”というのもあった)と書きたててからかった。長嶋監督の1年目、球団史上初の最下位で苦しみ続けたが、その責任は「ジョン損」にあるといわれたこともある。
遠征地のホテルの部屋にジョンソンを訪れたことがあった(宿舎はナインと別だった)。そのとき、ジョンソンは開かないガラス窓を指さして淡河コーチにいったという。「この窓が開かないので私は助かっている」。「彼はね、”もし窓が開くようなら、いつ飛び降りたかわからない”というんだ。彼がマジメすぎる性格だったにしても、そこまで悩んでいたんだねえ」。けっきょく在日2年で通算打率・241、39本塁打という成績でサヨナラしたが、ジョンソンはアメリカで指導者としての研鑽を積み、ついにメジャーのワールド・シリーズ制覇の監督の座にまで駆け上がる。その翌年、米大リ-グ通だった故池田郁雄前社長の紹介でニューヨークでジョンソン監督に会ったとき「日本の思い出は甘くて辛い」といっていたが、そのときは軽く聞き流していたことがいまとなると恥ずかしい。
2004年、また数多くの新しい外国人選手が日本でのスタートをきる。それぞれが球団浮沈のカギを握っているといわれるほどの存在だ。彼らが「開かない窓」を見て、どう思うか。それがチームの成績に大きくかかわるかと思うと、なんだか妙な気になってくる。
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2004年03月17日
今度は西武・カブレラの死球による右手尺骨骨折。「6週間の固定と4週間のリハビリ」というから、これはショックだ。「近鉄・ローズ」はいなくなったが、ロッテのイ・スンヨプがカブレラに挑むことを楽しみにしていたファンもいるという話も聞いていたので、そのためにも「カブレラ健在」はリーグ全体にとっても大事なポイントだった。悔やんでもあまりある死球禍ではあった。
もうすぐ公式戦開幕というときになって、このところ次々に「開幕絶望」とか、中には「今季絶望」などといわれる消息が伝わってくる選手が多いことが気になっている。
たとえば、登板のたびに、オーバーでなく”ヒトミをこらして見る”といった感じでみつめる中日・岩瀬仁紀投手とかダイエー・和田毅投手の、利き腕の故障による”開幕絶望説”。たとえばまた、個人的な”ごひいき選手”のひとり、近鉄の吉岡雄二内野手やヤクルト・館山昌平投手の”今季絶望説”にも少なからぬショックを受けたひとりだ。いまさらいってもはじまらないことながら”どうにかならなかったのか”という思いをいまなお消せないでいる。
医療関係の機器、施設の整備、充実ぶりについてはいまさらいうことはないし、ひとりひとりの体調管理意識も一時代前に比べれば数段の高まりをみせていながら、前記選手のほかにも(死球禍による故障は別として)どのチームの主力選手にもさまざまな故障説が入り乱れているのは、どうしたことか。まさか、恵まれた環境に甘えているわけではあるまい。
これまで何人も、主力選手の故障欠場で”しめた”とばかりレギュラーの座にかけ上っていった選手を知っている。そういう選手が、今年は、いるのかいないのか。それをみきわめるチャンスでもあるのだが、せめてそういう選手の台頭に興味をもつことで公式戦開幕を待つとするか。
ところで、この15日、所もジャイアンツ球場で、巨人のファームチームが社会人チームに惨敗したそうだ。選手数が足りなくて普段慣れていない守備位置について戸惑い、守備の大荒れで負けたという。それって「プロ」としての言い訳になるのかなぁ。それにしても「プロ」の名が泣くよ、まったく。
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2004年03月10日
長期間にわたるという、プロ野球70周年の記念番組、NHK・BS1の第1回、3月8日放送の「みんな野球が好きだった」、「プロ野球70年(1)」、約5時間、深夜までたっぷり堪能したが、その中で興味を持ったのは、主題とは別のことだった。
それは、長嶋茂雄を語ったときの稲尾和久(当時・西鉄ライオンズ)と野村克也(当時・南海ホークス)両氏の含蓄に富んだ証言のことだ。日本シリーズの大事な場面で打者・長嶋と対したときシュ-トで仕止めた稲尾投手の話と、それを受けた南海・野村捕手が、実は巷間伝えられていた「稲尾投手の武器はスライダ-」ではなく「シュートだった」ことを早くから見抜いていたことに話が進展、オールスター戦でパ・リーグのバッテリ-を組んだふたりが、丁々発止のやりとりを続ける話になってゆく。
プロ野球史に光彩を放ったふたりの語り口もみごとで、あらためてふたりが活躍を続けた頃の”充実したパ・リーグ”の一面を見た思いだった。ふたりの話を聞きながら、激しい首位攻防を繰り広げた頃の南海ー西鉄戦、当時の、場内に入りきれないほどの野球ファンであふれかえった大阪球場周辺の熱気に満ちた情景を思い出していた。
「みんな野球が好きだった」の中では、「一度、鈴木啓示投手とキャッチボールをしてみたい」という東北の小学校教師の夢が実ったシーン(それも藤井寺球場だった)もあった。ちょっとホロリとした。そう、東北の町から、ずっと「藤井寺球場の鈴木投手の力投に胸をハズませていた男」がいるのである。近鉄の” 命名権をめぐる騒動”が一段落してもなお、1リーグ論をうんぬんする人がいることに腹をたてている1人として、そういうことを是非、訴えたかった。
「プロ野球は2リーグ制でこそ発展する」といったのは”巨人の生みの親”といわれる正力松太郎氏だった。「合い競うリーグがあるから切磋琢磨して発展するのだ」と。それは、当時のNTVの会長室でインタビューしたとき「2リーグ分裂」といいかけたら、「君、”分裂”ではないんだ、”分立”と言い直したまえ」と厳しく叱られた私が直接、耳にした言葉だ。「北海道ファイターズ」が出発する新しいシーズン、パ・リーグは飛躍のときである。
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2004年03月04日
久し振りに「論争よ、起これ」と球界の人たちをけしかけたくなった発言があった。スプリング・キャンプでもいつも笑顔で誰にも愛想がよく、人気が高まる一方のボビー、ロッテのバレンタイン監督の、外国人記者クラブでのスピーチの一部だ。
報道によれば、バレンタイン監督は「夜の宿舎でのバット・スイングなど意味がない」と、日本のプロ球界(アマ球界の打者たちも、おそらく今夜もそういう練習を続けているだろう)ではほとんど”習慣”になっている「バットの素振り」を批判したという。「投手の投球にどう合わせるかというタイミングこそが大事なのに、ひとりでバットを振るなどという練習は無駄」という趣旨だった。
「論争よ、起これ」と、私が思ったのは、これまで長い間、日本のプロ球界で打撃タイトルを獲得したりして実績をあげた打者ほど「バットの素振り」の効用を説く人が多かったからだ。
たとえば、つい最近も「ジャイアンツ栄光の70年史」の取材で会った、「打撃の神様」といわれた川上哲治さん。若い頃、タイガースの先輩打者の「カーブの打ち方」の巧さに感嘆して以来、夜の宿舎で、昼の試合で対戦した投手のカーブを頭に描いて、その打者の打ち方のタイミングを思い出してのバットスイング。それが以後のバッティングに効果があったという話を聞いたばかりだ。
たとえばまた、「世界のホームラン王」王貞治がアメリカでも「フラミンゴ打法」と驚嘆の目で見られた「一本足打法」を完成したのも、夜の試合後もなお当時の荒川博コーチ宅の2階の部屋でバットを振り続けた所産だった。王と同世代で、イチローが出現するまで7度の首位打者という記録保持者・張本勲も「あれほどの努力を人は運といい」という言葉で、人が見ていないところで繰り返し続けた「バットの素振り」がいかに打撃力向上に役立ったかを説明していた。いずれも”この耳”で聞いた話である。
「古い話ばかり」という人には、是非いま”21世紀のプロの若者打者”にも聞いてみてほしい。ほとんどの打者が「明日の一本のヒット」を夢見て「夜のバットスイング」を続けているはずだ。
バレンタイン監督のいうことが正しいのか、これまでの”日本の習慣”のほうが打者に役立っているのか、球界全体を巻き込む大論争に発展してほしいと願っている。
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2004年02月25日
一、ホームランを打った打者のベンチ前での出迎え禁止、一、投手は早めにかまえて投球間隔を短くしろ、一、場内アナは次打者のコールを早めに、一、攻守交代はダッシュで、一、打席に向かう打者のテーマソングを短縮しろ。
巨人・堀内監督の「3時間ゲームのための具体案」。賛成だ。巨人系列のスポーツ紙が「非情禁止令」などと大見出しを掲げていたが、この”五か条”を「非情」という表現で、いかにも選手に同情するような甘い感覚でいるから、いつまで経っても選手の”ノロノロ、ダラダラ”習慣が治らないのだ。テーマソングが短くなるくらいで、なにが「非情」なものか。たとえば松井秀喜がいた頃のゴジラの主題曲だって延々と流すのではなく、出だしの部分だけでけっこうムードは盛り上ったではないか。
この”五か条”に関連していつも思っていたのは、堀内監督も言及していたようだが、大きくリードされている”負け試合”の終盤、それこそ”焼け石に水” の1点ホームランを打った男にまでベンチ前に出て笑顔でハイタッチなどしているシーンほどムカムカしたものはなかった。まして、まだ接戦中のそれ以前に走者を置いた得点チャンスに凡打した男が終盤に1点くらいとって、一体、なにをはしゃいでいるのか、そしてそれを”祝福”している同僚の、なんという”甘ちゃん姿勢”であることかと一種の怒りをもって見ていた。あんなに無駄な時間はないのだ。堀内監督、よくぞいった。
「攻守交替のダッシュ」にしてもそうだ。ヤクルト・稲葉の攻守交替時の全力疾走に対する神宮球場スタンドの拍手を見よ。あれは見ていて本当に気持ちのいいものだ。稲葉に出来て巨人の選手に出来ないことはない。堀内監督は「7割のダッシュ」などと遠慮がちにいっているようだが「全力疾走」と言い換えてほしいところだ。もし野手全員が、それを実施したらチームのイメージはまるで変わってくるはずだ。
そのむかし、「全力疾走の攻守交替」で話題になった高校野球チームがあった。「疲れないか」と質問した記者に、そのチームの監督はピシャリといった。「そんなことで疲れるような教育はしておりません」。
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2004年02月18日
ふたりの若者が「次の松井稼頭央だ」と首脳陣にPRされ、「04年のキーマンだ」とまで持ち上げられていることに強い興味をもっている。それこそ松井稼頭央が抜けた穴を埋める大器といわれる西武の中島裕之と、その西武からオリックスに移ってきた伊原監督推奨の後藤光尊の両遊撃手のことだ。
毎年のことだが、多くの人たちの眼が集まる注目のスター選手のことよりも、スプリング・キャンプでは、話題のルーキーではなくそれまであまり話題にはならなかったのに新たにグングン力をつけてきて新しいシーズンに活躍しそうな若い戦力を見ることが大きな楽しみのひとつだった。過去、よくファームの指導者に会って、その種の質問をして”○○を見ておいて”というアドバイスを受け、本当にその選手がスターダムにのし上がっていった例を何人も見てきた。
それは”オレだけがその進境過程をじっと見ている”というひそかな楽しみになって(誰にもいわず胸の中でその楽しみを味わい続けているのは一種の快感でもある)いた。今度の中島、後藤両選手は両チーム首脳の”大宣伝”もあってすっかり有名になってしまったが、周囲の”大きな期待”というプレッシャーをハネのける闘志で乗り切ってほしい。
特に最下位返上どころかAクラス入りを目指しあわよくば新しいプレーオフ制でリーグ制覇をさえ狙おうというオリックスにとっては谷、山崎、村松といったベテランのこれまで通りの働きなしではそういう夢は叶えられないだろうが(その前に投手陣の頑張りが必須条件だが)、一方で”若い力の台頭”もまた”旧来のチーム”に刺激を与える意味で上位進出のための大事な要件なのだ。
西武の中島にしても同じだ。かって黄金期を謳歌していた頃に比べて、カブレラは別格として、打線はじぶん”小粒”になってきた。その上、打守走揃いパンチもある松井のあとを継ぐ打者の出現はこれまた必須条件だ。希望に満ちた環境ともいえる。
自分で一軍レギュラーの座を目指して頑張っているつもりでも、すぐ次々に”上”に他チームから大物打者がやってくるチームの若者が可哀相になってくる。
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2004年02月12日
いきなり私事で恐縮だが昨年暮れからちょっと体調を崩し、いまリハビリ中で”待ちに待ったスプリング・キャンプ地訪問”がかなわず、無念の日々を送っている。昭和30年代から2月といえば九州(新聞社の西鉄ライオンズ担当のときは一ヶ月間ずっと島原、ジャイアンツ担当のときはずっと宮崎)、遊軍記者になってからは四国はじめ各地を歩き続けた季節だったから、この”プロ野球スタートの季節”にチームがいない東京でテレビのスポーツ番組やスポーツ紙などでキャンプ地の動静を”垣間見ている”だけなのは、なんともつらい。
「週刊ベースボール増刊」の「巨人70年史」の取材で久し振りに”V9監督”の川上哲治さん宅を訪れ長い話を聞いたあと、目的取材後の”自由談義”でそんな今年のスプリング・キャンプの話になったとき、川上さんが「落合監督に興味をもっている」と言い出した。スプリング・キャンプの形態は、実は各球団とも巨人のV9時代のやり方を踏襲してきていた。その”右へ習え”的の練習形式を落合新監督が数十年ぶりに打ち破った。一、二軍の区別なし、いきなりの紅白戦、主力選手の練習スケジュールは白紙で当人まかせ。
「それぞれの選手の内から盛り上ってくる意識を技術に結びつけようとしているのだろうが、その技術向上が、勝利に向かってどのように心の連帯に結びついていくか」。川上さんは、そこに強い興味と関心をもっているという。V9野球の監督として自分が次々に打ち出した新機軸を、他球団が毎年のように真似していった頃には感じなかった新鮮味を感じたそうで、それがどういう結果となって現れてくるかという興味だ。
キャンプ地から遠く離れて、マスコミ報道による”間接知識”でいうのだが、いろいろと”場外騒ぎ”のあったパ・リ-グ各地にもファンが例年より多くつめかけているようなのが嬉しい。なんのかのといわれるが、ファンは昨年までとはまたひと味違う”新鮮な野球”を見たがっていることだけは間違いがない。そろそろ疲れがたまってくる頃、あちこちから故障者情報も多くなってきたようだ。”どうか、体を大事に”と願いつつ、各チーム、各選手の動きに好奇心をつのらせているところだ。
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2004年02月04日
もちろんTBS(東京)は見て一種の感動を覚えていた。イチローと松井秀喜の初の対談。それが「週刊ベースボール」の巻頭に活字になってあらためて読んで、これこそ、類い稀れな才能を持った男ならではの豊饒な世界だと再確認した。単なる打撃論、守備論、走塁論を超えたふたりのボキャブラリー豊富なやりとりに、ほんと、感じ入った。
たとえば、イチローが松井の守備に関して「追っかけました、帽子とびました、髪がサアッてなびきます、これはダメ(略)、スライディングしました、さっと起き上がるんじゃなくて芝生をえぐってもらいたい」というような表現の要求、自分の走塁に関して、チームごとの「のぞみ」と「ひかり」と「こだま」別選手の比較などは、高度な話をしているのにわかりやすくて唸ったものだ。だからつい、”この男が解説者になったらーー”などと考えてハッとした。そのあとに、私たち報道関係者への痛烈な言葉があったからだ。
とにかく毎日、報道陣のインタビュウに愛想よく答え続けて、ニューヨークの記者による「グッドガイ賞」を得た松井に「オレには遠い賞」といったイチローの、そのあとの言葉だ。「メディアの向こうにファンがいると思っているのは同じだよね。だから俺は(それを意識すればするほど)適当な答えができない。緊張感をもった関係でいたいし、メディアと選手というのはお互いが育てあうものだと思っているから。緊張感がほしい。いい加減なことを聞いてくる人もたくさんいるしね。それをいい加減に答えたくないし、受け流すことができない。それが僕の誠意の示し方。それでお互いが高め合っていくことが理想なんだよね」。
ウーム、である。かってオリックス時代、それまでにこやかに答えていた彼が急にじっとこちらの目をみつめ黙り込んでしまったシーンを思い出した。そのときイチローはきっと”いい加減な質問にいい加減に答えたくなかった”のだろう。こちらもイチローのように”緊張感のある世界”の中で、彼らの緊張に満ちたプレーについて質問を続けなければならないのだと、あらためて我と我が身にいい聞かせたものだった。
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2004年01月28日
高校球界もプロ側も大歓迎一色の今度の両者の歩み寄り、もちろん、「週刊ベ-スボール」連載時からの当コラムでも何度も両者の”接近”を願い続けてきたひとりとしても”ついにやったぜ”の心境である。
かって、長嶋一茂さんが立教高ー立大当時、家の中で父・茂雄氏の指導を受けてもルール違反だなどという記事を見て失笑したことがあったが、そういう極端な例でなく、引退した元プロ選手たちから何度も、「仕事の途中や休日の散歩などで地元の母校(高校)のグラウンド横を通っても声ひとつかけられないとは、なんと息苦しい野球界だろうと悲しくなった」というような話を聞き、聞いているこちらも悲しくなったものだった。
アメリカで、米大リーグ・チームが遠征前のめったにない休日に、地元の大学や高校チームと和気藹々の交流をしていた風景を見たとき、彼我の差に驚いたことがある。そこには、なんの違和感もなかったし、どうして日本はこういう交流ができないのかと歯がゆくもあった。
「まだまだ第一歩、これからいろいろなことがあるだろうが、一歩一歩、理想の形へ進むよう努力したい」という関係者の言葉通り、いかに”雪解けムード” とはいえ、現実問題としてこれからお互いがキッとなることがあると思う。そういうときこそ”冷静に、冷静に”というしかない。私がいまもっとも心配しているのは、今度、双方が歩み寄る”基本”となった覚書の第三項だ。要旨、高校生へのスカウトに関して、プロとアマの健全な関係を害する行為や、その恐れがある場合、双方の組織が事実関係を調べ、是正措置を講じ、それぞれが当事者や球団、野球部を指導、処置する、という項目だ。
もし、そういうことがあったら、また両者の関係は険悪になることは目に見えている。これまでの両者の離反は、社会人球界との悲しい歴史”柳川事件”にみるように、そのことに大きな理由があった。プロ側も自省しなければならないし、アマ側も、よくいわれる、実態が未だに判然としない”ブローカー”と呼ばれる”プロとの折衝係り”との接触を断固排除しなければならない。
新しい事態が生まれると、また”新しい事態の下での網の目をかいくぐる新手法が生まれる”というような消息通のワケ知り論が出てくるが、今度だけは双方ともどうか”徹底した紳士”であってほしいと心から念じている。
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