2007年11月20日
千葉ロッテからFA宣言した薮田安彦、楽天からFA宣言した福盛和男両投手に、メジャーからそれぞれに5球団からのオファーがあるという。カンサスシティからもロイヤルズの監督に就任したばかりのトレイ・ヒルマンの、日本ハム監督として対戦した視点からだろう、「多くの球種を使い分ける、すごく気に入っている投手。中継ぎにも抑えにも使える」という“薮田絶讃談話”が届いている。
これも、今季、レッドソックスで大活躍した“岡島秀樹効果”だと思うが(薮田、福盛両投手には失礼な言い方かもしれないが)、それにしても野茂英雄投手がメジャー・リーグへの道を切り拓いてから13年、野茂-松坂大輔-黒田博樹(まだ所属先はわからないが)といった先発ローテーション入りする本格派とは別に、薮田や福盛といったタイプの投手に5球団ものオファーが殺到するようになるとは思わなかった。
もうひとり、興味ある対象に、今季で37歳になる巨人の左腕・前田幸長投手がいる。このところめっきり出番が少なくなっていたのが面白くなかったのだろうが、敢然と「メジャーに挑戦」と打って出た。こちらも岡島に強く刺激されたのだと思うが、それにしても野球の潮流の変化を感じずにはおれない。
それにしても、レッドソックスのスカウトと岡島投手は、“もうひとつの”プロ野球選手の生きて行く道を教えてくれた。両者のその功績は大きい。
岡島投手は、ドラフト3位指名だった。そのとき巨人入りしたドラフト組は、ほかにもうひとりも残っていない。そのときのドラフトでプロ入りした選手は63名いたが、いまも活躍しているのは小久保裕紀、福浦和也(ロッテの7位指名)、大村直之(近鉄の3位指名)、金子誠、それに今季、コロラドで大活躍した松井稼頭央(当時、西武の3位指名、松井和夫投手)くらいで、あとは“全滅”している。いかに数少ない「成功組」だったかがわかる。
私はずっと以前、野茂やイチローがプロ入りする頃、「ドラフト史」という増刊編集を思いたって編集していたことがあるが、毎回決まって組んだ特集のひとつに「下位指名の男たち」というものがあった。68年ドラフトの阪急8位指名・福本豊とか、73年ドラフトの阪神6位指名・掛布雅之とか、よく知られるところでは91年ドラフトのイチロー、中村紀洋、金本知憲らがいずれも4位指名だったことなど(その他、下位指名からトップスターにのし上がった選手は、いっぱい、いる)を列挙して「ドラフトの指名順序など、その選手の価値基準にはならない」といいたかった。
その年のアマ球界の話題の大物に他球団が目を奪われているスキにサッと指名してしまうスカウトの眼力、そして下位指名だろうとなんだろうと「いつかメにモノをいわせてやろう」と研鑽を積んでいく選手の気力と努力。それらが合致したのが、前記の大物スター選手たちだからだ。
だから、いつの年でも、私は下位指名の選手たちの詳細なデータを頭に入れておくことにする。その男たちが一軍公式戦でグングン台頭してきたとき“ああ、そういうことだったのか”とわかってくる。それが野球観戦の上で非常に役立ってくる。
さて、投手指名が圧倒的に多かった今年、その名も知らなかった選手たちのことを調べていくと実に面白いのだが、今回は、もうひとつ、ロッテの5選手指名を筆頭に8球団が15人も指名した育成選手のことがある。四国リーグあり、BCリーグあり、中には軟式野球の選手もいた。今季は巨人の山口鉄也投手ら、育成組から3人も支配下選手契約をかわすまでになった選手が出ていた。これからは育成選手の足跡もじっくりと見ていきたい。
これまでは考えられなかった薮田や福盛や前田がメジャーに挑戦していくように、いつの日か、育成選手が日本プロ球界のトップに立つような時代がくるかもしれない。そのときは、いまでは考えられないような“底辺リーグ”が大活況を呈するようになるかもしれない……という夢をもって、育成選手の成長を期待したいのだ。
posted by 田村大五 |16:32 |
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2007年11月13日
13日早朝、福岡の知人からの電話で稲尾和久さんの訃報に接したとき、頭の中が真っ白になり、しばらく言葉が出なかった。1週間ほど前、別冊「にっぽんの高校野球」シリーズの編集担当者から「九州編を製作するので大分県特集のひとつとして“稲尾和久の高校時代と、いまはなき別府緑ヶ丘高”について書いてほしい」といわれたばかりだった。新聞に、つい先ほど行われた沢村賞選考委員会には「体調不良で欠席」とあったことは知っていたが、10月30日に緊急入院したことも知らず、“あの頑健な男が倒れるわけがない”と勝手に思いこんでいたから、久しぶりに口説いて故郷・別府まで同行しようかなどと勝手で失礼でのんきなことを考えていた。その矢先きのことだったから茫然自失、まだ、あの大投手と幽明境を異にしたことが現実のものと思えない。20歳代からの長いつき合いだけに思いがあふれ、なにから書いていいのか混乱している。涙が出てくる。
高校を卒業してすぐ21勝6敗、防御率1.06(この数字を見よ)の新人王、以来、シーズン35勝、42勝ありの8年連続20勝以上。最優秀防御率5回の全部が1点台というのだから、いくら野球が変わったといっても、いまの時代からは想像できないであろう驚異的な防御率だ。しかも、それがシーズン400イニングスを越えるピッチングをした上での数字であることが、すごい。
完投、リリーフ、完投、完投と続けたこともあった。そのものすごい“使われ方”が稲尾の投手寿命をちぢめたといわれたこともあった。しかし、稲尾自身は終始、そういう見方に反発した。「だってな、あれだけ投げさせてもらって、勝って、それでファンが喜んでくれた。ワシの名前も、それで残った。むしろ、感謝せな、いかん」。
福岡の街を一緒にタクシーに乗って走っているとき、道行く人を指さし、「ホレ、あのオジさんもオバさんも、ワシの顔を見るといまでも手を振ってくれる。ありがたいもんじゃ。それもこれも、あれだけたくさん投げたからだ。誰が登板過多なんて恨むものか」。
“野球ネタに困ったら稲尾のところへ行け、必らず興味深い話をしてくれる”と先輩記者に教えられ、昭和30年代からずっとそれを実行してきたのだが、いつ会っても丁寧で優しく“野球”をかみくだいてわかりやすく説明してくれた。「右投手における左腕の研究」などと虚をついた説明のように聞こえ、その実、“右投手にとっての左腕の位置”がコントロールに重要であるとか、右投手の右打者への内角からの真ん中へのスライダーの有効性とか、素人の私にかんでふくめるような“解説”が面白かった。
監督になってからの“ヤンチャ坊主”東尾修投手との丁々発止や、ロッテ監督になって“三冠王・落合博満”とのやりとりなど、後年の“東尾監督”“落合監督”を見る上でもずいぶん参考になった。
少年時代からの野球人生をまとめようと、1年間、東京-大阪-福岡を行ったりきたりして話を続け、膝つきあわせて作業に没頭、「鉄腕一代」(ベースボール・マガジン社刊)をまとめたのは92年から93年にかけて、だった。殿堂入りしたとき、東京での祝賀パーティの段どりをまかせられ、引き出物の相談になったとき、すかさず「鉄腕一代」というラベルを貼った焼酎をとりだし、「これにきまっとる」といったのには笑ってしまった。
いつ会っても、小柄な私の肩を抱いて、「人にいえたことではないかもしれんが、酒はほどほどにせいよ」などと私に説教を垂れていた。サイちゃん、なにいってんだよ。先にあの世へ行ってしまって。「鉄腕一代」の飲み過ぎだったんじゃないのか。悔しい……と、また涙があふれてくる。
posted by bbm_hakkyu |17:09 |
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2007年11月06日
4日夜のNHKTVのスポーツ番組に生出演した中日・落合博満監督の言葉を聞き、日本シリーズ第5戦の山井大介-岩瀬仁紀の継投に関する事情を知って、あらためて得心がいった。
4回頃から右手中指のマメが裂けて血が出ていたこと(血がついたユニフォームの写真も見た)、痛みをこらえて投げていると古傷の右肩に影響するおそれがあること、右肩の故障でこの2年間投げていなかった、それを無理して投げさせてまた肩を痛めたら山井のこれからの野球人生にも影響しかねないこと、それにベンチには全員が信頼している岩瀬という切り札がいること、などなど。そして、山井の快投を絶讃し、あの場面、岩瀬のプレッシャーはどれほどすごいものか、それに耐え投げきった岩瀬の功績にももっと目をむけてほしいともつけ加えていた。
ほかの場面ではあったが、その上で、あの交代を批判する声について「ベンチ内部の事情を知らないでいっているんだから、それはしようがない。なにをいわれたって平気。こっちは勝ったんだから」と笑っていた。別に語気を強めて“反論ふう”にいうのでもなく淡々と語り続ける姿勢に、指揮官としての自信と余裕が感じられた。
日本シリーズ前のことだが、「日刊スポーツ」紙に寄せた森祇晶氏(元西武ライオンズ監督)の「監督・落合博満」という一文が強く印象に残っている。
CS第1ステージ初戦の初回、無死からの荒木雅博の盗塁や巨人戦での川上憲伸投手のバスターなどに触れ、「自軍選手の技能、状態、そして相手を把握した上での判断」で「決して無謀な懸けや思いつきではなく、裏付けのある采配」とし、「落合監督はメディアなどで手腕に見合うだけの評価を得ていない」と断じた上、「そこから今の日本球界が抱えている問題点、そして間違ったリーダーシップ像が見えてくる」とまで筆をのばしていた。
森氏は、球団が新監督を選ぶ際によく聞かれるフレーズに「さわやか」「好感度」「生えぬきスター」「人気」というようなものがあるが、そういうことに違和感があるといい、書き続ける。
「そうした考え方と(落合監督は)正反対にいる。愛想はよくない。華やかで絵になるタイプではないだろう。シャイな男だから『オレはこうやっている』などと、自分の宣伝はしない。どれだけ批判されても言い訳もしない。これらは彼の優れた点なのだが、どうもマイナス面としてとらえられている。メディアは『オレ流』など、変わり者のように描く」……と、森氏は、どうもメディアの扱いがお気に召さないようで、現役捕手時代からヤクルトのコーチ-西武監督と長くつきあってきた私には、まるで“ボヤキの森”の肉声が聞こえてくるような「落合擁護論」だった。
そして打では森野将彦、投では朝倉健太らの育成、今度のシリーズでも大活躍した谷繁元信捕手の使い方などの例をあげて育成・管理の面でも実績をあげたと詳述し、「奇をてらった采配をしない、いわゆるオーソドックスなタイプの監督だろう。パフォーマンスや人気とりもしない。監督としてチームの勝利に徹する男。プロ集団のリーダーにふさわしい」と結論づける。くり返すが、これは日本シリーズ前の「落合論」だ。
そして森氏は、あの山井-岩瀬の交代後、同紙上で「私情を捨て、チームの悲願を確実とする采配に徹した(略)。賛否両論あるだろうが、よくぞ決断した」と“落合決断”を評価した。
その後もメディアでは、この投手交代は是か非かがあちこちでくり返されている。「山井の完全試合ピッチングを見たかった」説と「チーム勝利のためによくぞ思いきった」説がほとんど五分五分。この論争? は、今後も続くだろう。私は後者説のほうなのだが、私の周囲には強硬な前者説もけっこう多い。ある意味では、その人その人、それぞれの「野球観」が、この問題に色濃く投影されているように思うが、どうだろう。
中日ドラゴンズ、1954年以来のチャンピオンの座。聞けば、安倍晋三・前首相が同年9月21日生まれだという。ドラゴンズが日本のプロ球界を制したときは「政変」が多いのだそうだが、ファンがまだ美酒に酔っている頃、今度は、やれ「大連立」だの、やれ「小沢・民主党代表、辞意」だのと政治の世界が大鳴動と、きた。不思議なものだ。
posted by 田村大五 |15:59 |
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2007年10月30日
第2戦までのテレビ観戦だが、今年の日本シリーズを見ていてあらためて中日の荒木雅博-井端弘和コンビのすばらしさにうなったこと再三だった。あの息の合った守りは、落合博満監督就任以来の猛練習の結晶だといわれるが、呼吸ぴたりの守備ぶりは、そのまま1、2番の攻めにも見事に体現されて打線を引っ張っている。シリーズの勝敗はまだわからないが(いま30日正午すぎ)、この2人の攻守のプレーは、ずっと頭の中に残像として残るだろう。こういう“プロのプレー”を見るのは快感だ。
日本シリーズを横目に、どのチームも秋季練習に動き出した。「翌シーズンに向けては、実は9月にはもう動いているんだよ」と元監督に聞いたことがある。トレード・プランから交渉、コンバート・プラン、強化ポイントの練り直し等々、留任監督は、公式戦終了前に動き出しているのだそうだ。だから、秋季練習は、その実践段階なのだという。そういう意味で、いまもっとも興味をもっているのは、阪神の岡田彰布監督がどう投手陣を整備していこうとするのか、だ。
「JFK」という両リーグ通じて屈指の“抑えトリオ”でチーム防御率は確かにセ・リーグのトップだが、後半のバテは、やはり先発陣に人を得なかったからだろう。下柳剛、安藤優也、福原忍にルーキーの上園啓史でもちこたえられなかった先発グループをどう建て直すかが、来季へのポイントだと見ているひとりだが、さて、聞くところ先発グループ入りを希望しているという藤川球児、久保田智之とどう話し合い、どういう方向に導いていこうとしているのか。個人投手成績で、規定投球回数にとどいた投手がひとりもいなかったのは両リーグ通じて阪神の投手陣だけ、というのはいかにJFKがいるからといって、やはり、どこかおかしい。岡田監督が藤川と久保田にどう対処するのか、個人的にはこのオフの最大のみどころだと思っている。
新監督たちも動き出した。
“留任監督は9月から新チーム作りに動き出す”ということからいうと、新監督たちは新チーム作りには1ヵ月から2ヵ月の時間的ハンディを背負ってのスタートということになるが、投手陣が充実している日本ハムは別として、西武・渡辺久信、ヤクルト・高田繁両監督ともに、注目は、やはり、どう投手陣を整備するかだろう。特に最下位に落ちてしまった“グライシンガーひとり”のヤクルト投手陣を、高田新監督は、どう整備していくのか、これも興味がある。打線では首位打者・青木宣親、打点王のラミレスに35本塁打のガイエル……と活発に動いたのに、首位巨人に20.5ゲーム差もつけられた最下位とは、投手陣の惨状につきる。
聞けば、日本ハムのゼネラル・マネジャーとして、昨年のドラフト会議では、埼玉・鷲宮高からヤクルト入りした増渕竜義投手にえらくご執心だったという。いつまでもアメリカ帰りのベテラン・石井一久に頼っている時代ではないだろう。五十嵐亮太や石井弘寿の故障回復も待たなければならないだろうが、最下位脱出からAクラス入りを果たすには、藤井秀悟、石川雅規の左腕コンビに続く威勢のいい若手右腕を育てあげなければならないときだ。
見渡せば、ダルビッシュを先頭に・西武・涌井秀章、ロッテ・成瀬善久、巨人・内海哲也……、と、いまや投手税は若者の天下だ。遅れをとってはなるまい。それは最後の最後まで最下位を争った?広島にもいえる。右の大竹寛がようやく伸びてきたようだが、今季、左腕ルーキー・青木高広の歯がゆさといったらなかった。負けても負けても登板命令を出し続けたブラウン監督のしつこさが来季になって実ってくると面白いとみているのだが、こうやって下位チームに力入れするのは、もっともっと激しいペナントレースを見たいからにほかならない。
その意味で、表面はこともなく過ぎているように見えるが、実は、いま、このシーズンが来季へのカギを握っているのだと、そのことをいいたかった。
posted by 田村大五 |19:31 |
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2007年10月24日
たとえば、日本ハムの森本稀哲外野手。僚友の首位打者、リーグ最多安打(176安打)の稲葉篤紀に次ぐ175安打を打ってリーグ最多の91得点は、みごとといっていい。一塁走者で、次打者の外野の間を抜けていく長打を見つつ塁間を疾駆するしなやかな体は、日本にいた頃のイチローのベース・ランニングを思い出させるにじゅうぶんだった。「得点王」というタイトルはないが、「得点王こそチーム勝利の貢献者」という論者もいるほどで、森本は、日本ハム投打の主柱、ダルビッシュと稲葉に並ぶリーグ優勝の功労者といっていいだろう。同じ日本ハムでいえば、58犠打のパ・リーグ新記録を作った田中賢介もそうだが、タイトルこそとれなかったものの、前年までの成績と比べると、格段の進歩をみせた選手の印象が強く残るシーズンだった(田中賢介がプロ入りした年、イースタン・リーグでタイトルこそとれなかったが、ベースボール・マガジン社制定の「ビッグホープ賞」に選ばれて以来、シーズン前の激励会で顔を合わすたびに「ビッグホープ賞受賞者は、イチロー以来みんな立派な選手になっている。頑張れ」と励まし続けてきたのだが、今季、7年目、25歳、みごとな“オトナの選手”に成長してくれたと喜んでいるひとりだ)。
同じ「田中」でいえば、ヤクルトの田中浩康内野手も、その進境ぶりに目をみはった選手のひとりだ。後半戦になって二塁に定着した昨年に比べ、今季は青木宣親とラミレスの間を打ち続けるというむずかしい立場で常時出場して打率.2949、よくつなぎ役を果たしてリーグトップの犠打51(2位が中日・荒木雅博の30犠打だからダントツだ)。もうひとつのリーグトップの三塁打8という数字も新鮮だ。森本のような“走る、走る、また走る”というイメージが重なってくるからだ。チームは最下位。打者の話題といえば青木とラミレスの首位打者争いのことばかりだったが、台頭してきた田中浩康は、青木に次ぐ若い打者の出現ということでもっと注目されていい存在だと、ずっとプレーを見ていたのは私ひとりだっただろうか。
移籍組でいえば、オリックス-巨人の谷佳知。パ・リーグ2冠王から巨人入りした小笠原道大とともに、パ・リーグからきたこの2人の活躍なしに(他の要因はあったにしても、だ)、今季の巨人のリーグ優勝は考えられなかったと思う。そして、私が特筆大書したいのが、ロッテの早川大輔外野手だ。06年、オリックスで一軍公式戦21試合出場、46打数9安打、打率.196だった男が、07年、ロッテに移って133試合出場、459打数、130安打、打率.2832で、リーグトップの8三塁打の快打好走。“旧オリックス組”の谷と早川が新天地で大活躍、交換に巨人とロッテからオリックス入りした選手がほとんど“戦力”にならず、このトレードを行なった球団フロントは“いったいなにを考えておるのか”とオリックスのオーナーは激怒したというが、ホント、谷との交換で巨人の誰がオリックスへ行ったのか、早川との交換でロッテの誰がオリックスへ行ったのか名前と顔がとっさに思い浮かばなかった(ゴメンね)。それほど、このトレードには大きな差があった。“球団フロントの戦い”とはこういうところにあるのだろうが、早川の活躍は、それをあらためて形にしてみせてくれたといえようか。
“タイトルこそとらなかったが表彰ものの選手”といえば、私は中日・森野將彦をあげる。打率.2943とか打点97という数字を超えた勝負強さ、それをバッテリー以外の7つのポジションを守りきって、シーズンを通じて発揮し続けた気力と体力。ウッズのあとの5番を打てば5番打者の役割を果たし、福留が抜ければ3番打者の役割を果たし、それが内、外野、ときに応じて守備位置を変えてのことだから、立派というほかはない。森野の“ツメのアカ”を煎じて飲ませたい選手がいっぱいいるから、よけいだ。
今季は、若手の台頭も目立った。ロッテの成瀬善久は別格としても、ソフトバンクの本多雄一、日本ハムの稲田直人、阪神では林威助、桜井広大が大きな拍手を浴びるようになったし、それにようやく勢いがついてきた楽天の草野大輔や渡辺直人を含めてもいい。次々と“若々しい戦力”が出てくるではないか。だというのに、またぞろ他チームで活躍した外国人選手に触手をのばそうとしている球団が続出している気配がある。嘆かわしい!
posted by 田村大五 |12:08 |
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2007年10月16日
夜遅いNHKテレビで、このところ多い、いわゆる「アーカイブス」番組でひと昔、ふた昔前の映像を懐かしく見ている年齢だが、家人が見ていたバラエティ番組で、若い歌手(氷川きよしとベッキー)が「長嶋(茂雄)さんと王(貞治)さんが巨人の選手だったことを知らなかった」といったシーンには、番組で同席していた年配のグッチ裕三さんも椅子の上でひっくりかえっていたが、私などは、驚きのあまり、座っていた椅子からとび上がったほどだ。普段、さまざまなことで“時代はまるで変わってきている”ことはわかっているつもりでも、このふたりの若いタレントの「ON=巨人」は「知らなかった」発言は、“そういうことなんだぞ、お前!”というような“旧人間・私”への強烈なメッセージにも聞こえてきたものだ。
そういう“プロ野球の歳月”に関していえば、このところ、ひとつのテレビ・コマーシャル・フィルムに、“感慨あらた”といえば聞こえはいいが、ある種のショックをおぼえた。かつての巨人-阪神の小林繁さんと、阪神-巨人の江川卓両投手が共演する日本酒のテレビ・コマーシャル。“ああ、そういう時代になったんだなぁ”というのが、私個人のまっさきの感想である。
「ON=巨人」を知らない人がいるのだから「江川問題」を知らない若い野球ファンもいるだろう。「どうしても巨人に入りたい」と太平洋クラブ・ライオンズ(いまの西武の前身)のドラフト1位指名を拒否してアメリカの大学へ行き、1年後に帰国してドラフト会議の前日に「空白の一日」という理論? で巨人と契約、リーグ会長が拒否すると巨人はドラフト会議をボイコット、巨人欠席の会議で阪神が1位指名するが江川側は応じず、この77年暮れから78年春まで、江川家があった栃木・小山には報道陣が殺到、新聞はスポーツ面だけでなく社会面まで大きくさいて報道、一種の“社会問題”となって世間をにぎわせた。78年、キャンプ・イン直前に、江川は阪神と契約した上で巨人・小林繁投手とトレードという“コミッショナー裁定”で、この問題は一応のピリオドをうったが、そのとき一度姿をくらました小林投手と「週刊ベースボール」は独占会見、「私は江川投手とのトレードに応じたのではなく、(混乱した)プロ球界の正常化のためにあえてこのプランをのんだ」という言葉を引き出した。
ふたりは以後、直接会って話をしたことがなかった。いや、小林投手に聞いた話では、一度だけ寿司店でバッタリ遭遇したことがあるそうだが、江川投手は気まずそうに頭を下げて去ったという。“事件”の流れからいって江川投手は“ダーティ・ヒーロー視”され、小林投手はキャンプ地の高知から安芸まで車が続いて大渋滞を起こすほどの人気者になり“輝けるヒーロー”となった。
それから29年。ドラフト制度は、それ以後もさまざまな問題を生んだが、「江川事件」のような大騒動は、もうなかった。「江川問題」の渦中で取材に明け暮れた身にとってはそれでも事件の“後遺症”がずっと残った。
そのふたりがいま、日本酒の宣伝で、テレビ画面の中で、笑いをふりまいている。歳月はすべてを流してしまうのだろうか。29年間という歳月の中の、ふたりの野球人生を思い、あらためて“歳月”というものが身に沁みた。
今年の高校生ドラフトの、“ビッグ3”といわれた大阪桐蔭高・中田翔→日本ハム、仙台育英高・佐藤由規→ヤクルト、成田高・唐川侑己→千葉ロッテの抽選が決まったときの3人の笑顔を見たとき、“ああ、ドラフト制も選手の心の中にここまで浸透、成熟したんだな”と思ったものだった。それを“自分の運命”と正面から受けとめて、その中で自分の野球の力を思いっ切りためし伸ばそうという思いと志。そういう確たるものがあるからこその、あのさわやかな笑顔だったのだろう。
パ・リーグのクライマックス・シリーズ、第2ステージ第2戦、4回表、カメラマン席にとびこんでファウル打球をつかみ、7回裏二死から6連打のきっかけを作った日本ハム・稲田直人はドラフト5位指名、7回表二死一、二塁のピンチで“あわやロッテ逆転の長打?”と思われた左翼への大飛球をつかんでバレンタイン監督を悔しがらせた工藤隆人は9位指名の入団だった。彼らは、そこから“自分の野球の世界”を作りあげた。
“江川事件”から29年、確かにプロ野球の世界は変わった。超満員の札幌ドームがドッと揺れているのを見ながら、思ったことだった。
posted by 田村大五 |18:43 |
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2007年10月09日
6月の広島-横浜最終戦、10対0と広島リードの9回表二死、すでに引退を表明している広島・佐々岡真司投手のカウント1-3からのストレートを左中間席に打ちこんだ横浜・村田修一が「こんなにつらいホームランを打ったのは初めて」と、泣きながらダイアモンドを一周したという報道を複雑な気持ちで読んだ。
“ホームランを打って泣きながらベース一周”というと、70年のパ・リーグ最終戦、阪急-東映戦での大杉勝男を思い出す。ずっとホームラン・レースのトップを走っていたが南海・野村克也がジリジリ追いあげてきて、ついに追いつかれる。不調に陥った大杉は、「オレはもうダメだ」といい続け、うちひしがれていたという。当時“兄貴分”だった張本勲さんに聞いた話だが、「そばにいても見ておれなかった」というほどの沈みこみよう。そして最終戦、ついに一発、打席の中で打球の行方をじっとみつめ、打球が外野席でハネかえったのを見届けたとたん、大声で泣きはじめ号泣しながらのベース一周、ベンチにかえってからも張本の胸に顔を埋めて泣きじゃくり、いま日曜朝のテレビで「喝!」と叫んでいる、あの張本さんももらい泣きしたほどだったという。それが、大杉にとって初のホームラン王タイトルだった。
村田が泣きながらベースを一周したという話を聞いてとっさに思い出した“むかし話”だが、どうも村田の場合は、大杉とはかなりニュアンスが違うようだ。8月の時点で、中日のウッズに8本も差をつけられていたというのに9月に13本と大ブレーク、一気に追いつき、ついにウッズと巨人・高橋由伸を追いぬく36号を放ったというのに「こんなにつらいホームランは初めて」とは……。
10対0という広島の圧倒的リードという試合状況。投手は引退表明の佐々岡。カウント1-3からの直球。そういうことの“うしろめたさ”だったのだろうか。だが、私は、そこまで考えなくてもいい、と思う。10対0だろうが、9回二死走者なしだろうが、“もうどうでもいい”と考えることはない。全力で打ちにいくのは、プロの打者として当然のことだろう。佐々岡投手も「最後は直球で勝負したかった」といっている。しかも、報道によれば、「遠慮なく打ってこい」といっていたという。それでは「こんなにつらい……」はないだろう。胸を張って「オレは36号を打った」といえばいい。
いや、逆に、とにかく“あと1本”が欲しいが、残り試合はどんどん少なくなる、“とにかく打ちたい、とにかく打ちたい”という思いだけが先走る。なかなか出ない。そういうときの9回二死からのホームラン。それが「こんなにつらい……」という言葉になったのだろうか。そうすると、37年前の大杉勝男と似たようなものになる。しかし、報道記事を読んでいると、どうも違う。どうも“佐々岡投手に対して申しわけない、すまなかった”という思いの涙、というふうに感じてしまう。それが、報道記事を読んだだけの、私個人の間違った解釈だったとしたら許してもらうしかないのだが(「週刊ベースボール」の担当記者か私自身が次に村田修一に会って確かめなければならない)、もし、村田の「つらいホームラン」が「10対0、9回二死」からで「引退する佐々岡への仮借ない追撃」だったことへの“謝罪めいた思い”からの発言だったとしたら、私は、あえて、村田に「つらいホームラン」などといってはいけない、と訴える。
投手が投げる、打者が打つ。そこからくりひろげられる筋書きのないドラマ。だから、野球は面白い。あらかじめ仕組まれたドラマにロクなものは、ない。村田修一は、どんな状況にかかわらず、プロの打者として、ちゃんと打ったのである。恥ずかしがることではない。
posted by 田村大五 |20:06 |
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2007年10月02日
61年8月19日、甲子園球場。第43回、夏の甲子園大会、準決勝の浪商-法政二高戦。浪商・尾崎行雄-法政二・柴田勲の投げ合いで大いに沸いた試合だ。1回裏、法政二が先手をとった。それが二死一塁からの攻撃。次打者の打球は、二塁ベースカバーに走ろうとした遊撃手の逆をついて左前へと転がっていった。そのときの一塁走者が柴田で、「日本高等学校大会50年史」は、次のような「飛田穂洲評」を掲載している。
「浪商左翼手の内野返球の怠慢に乗じての柴田の快走による先取点。柴田の走塁はケイ眼というべきだが、浪商外野手の不覚もまた見逃すわけにはいかない」。
その浪商の左翼手が、初めて甲子園の土を踏んだ「1年生の高田繁」だった。私は、のちに高田が明大からドラフト1位指名で巨人入りしたとき、報知新聞に在籍中で「高田繁物語」の連載執筆を命じられて約1ヵ月、毎日のように本人の話を聞いてまとめたのだが、約40年も前の話、いまはもう細部に関してはほとんど忘れてしまっているのに、その甲子園の話だけは、そのとき語り続けていた高田の表情や、ほかの追憶話とは語調まで違っていたことをハッキリ記憶している。高田自身よほど衝撃的な体験だったからだろう。
「ぼくは別に怠慢プレーをしたとは思っていなかった。ただ、ごく普通に打球を捕って内野に返球したら、もう三塁をまわりかけている走者の背中が見えたとき、“こんなことってあるか”と思った。“ああ、野球って、こういうものなんか”と思った」。そして、こう、いうのだった。「あれが、私の野球の原点になった」。
以後、東京六大学野球の盗塁記録(当時)、法大の強肩捕手・田淵幸一との丁々発止の攻防、新人王に選ばれた“巨人1年生”の日本シリーズMVP、攻守両面のぬけめのないプレー、わけても「絶妙の返球プレー」といわれた左翼守備、それでも張本勲の入団で長嶋監督に三塁へのコンバートを命じられたとき正月も返上しての猛練習でベストナイン三塁手に……そういう高田繁の野球人生の原点が、浪商1年生のとき法政二・柴田勲の走塁を許した自分のプレーにあったというのである。
球団初の連覇を成し遂げたというのに、いま急に日本ハムのゼネラルマネジャー役を降りるといいだした高田繁の、そんな古い話を突然、思い出したのは、日本ハムが連覇を決めた9月29日、対ロッテ23回戦、0-0の6回表無死、一塁走者・稲葉篤紀が、次のセギノールの三遊間をゆるく抜けたヒットで一気に三塁へ走って生き、それが先取点につながったシーンを見たときだった。“こういう野球で勝ってきたんだな”という思いである。
小笠原が抜け、新庄が抜け「マスコミに日本ハムは弱いといわれて、順位予想などでも下位におかれ、みんなでクソーッと思っていた。だからみんなでとにかく次の塁を狙おうと思いつづけた」という選手たちのひたむきな姿勢。久しぶりの東京ドームでの試合を見にいったときにハッと胸をつかれたのは、守備位置につくときでもみんな背をのばし、全力疾走に近い走り方をみせていたことだった。
中継ぎ役を含めた抜群の投手陣、リーグ最多安打を競い合った稲場と森本稀哲……そういうヒーローとは別に、私はずっと、小谷野栄一とか工藤隆人、稲田直人や飯山裕志、それに一度、戦力外をいいわたされたが再びユニフォームを着た坪井智哉を含めてもいい、そういう選手たちの、攻守にわたる“ハツラツ・プレー”に注目してきた。彼らのプレーが何度、チームを救い、勝利に結びついてきたか。それが、守備位置につくときもひたむきに走っていく姿と結びつく。そして、それがまた、自分ではミスとも思わないプレーの虚をつかれ相手に走られてしまったことから野球をみつめ直した高田繁の姿とダブッてみえてきたのである。
大型補強にたよらず、ファームとの密接な連係による人材発掘も、今季の日本ハムの特徴といわれた。チーム編成の責任者・高田繁と現場の責任者・ヒルマン監督のみごとなチーム運営の成果といっていいだろう。なんということだ、その2人が去るという。ひとつのサンプルを示しておいて“ハイ、サヨナラ”はないだろうと思いつつも、後任者にさらなる課題をつきつけたひとつの“勇気”かと思ってみたりもする。いや、これは“金にあかした大型補強”への皮肉かもしれない。
posted by 田村大五 |17:06 |
第201回~第220回 |
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2007年09月25日
9月17日からの甲子園球場での阪神-巨人3連戦が「テレビ中継(地上波)なし」で、スポーツ紙だけでなく一般紙にも「プロ野球関係者やテレビ局はなにを考えているのか」という野球ファンからの声が相次いだ。私もかなりイライラしたひとりだ。プロ野球のオーナーの中には「NHKの大リーグ中継が多すぎる」と批判した人がいたそうだが、なんということをいうのか、自分たちで日本のプロ野球の熱戦をテレビで全国のファンに提供して楽しんでもらおうという努力もしないでよくそんなことをいえたものだ(NHKの大リーグ中継は、日本プロ野球中継の時間と違うので、ずいぶん楽しませてもらった)とハラがたっていたので、首位争いの渦中にある3連戦の「テレビ中継なし」には、ホント、「自分たちで人気低迷に手を貸しているのか」と思うほどイラだった。
当然、ラジオの実況中継を聞く。聞きながらスコアカードを埋めていくのだが、そのうち、テレビ中継を見ているときより、「ラジオの実況中継-スコアカード作成」の作業のほうがずっと熱中度が高くなっていることに気がついた。1球、1球に、1場面1場面に不思議な“自分だけの野球の世界”が生まれ出てくるのである。これは、思いもかけない奇妙な体験だった。
たとえば、追いあげているチームのほうが一死一、二塁のチャンスで同点か逆転かというときの二ゴロ併殺。ラジオだから、投手の表情も打者の表情もわからない。打った瞬間のコース、球種も、中にはパッパッと表現してくれるアナウンサーもいるが、なにしろ瞬時だから「投げました、打ちました、セカンドの正面」といった式のアナウンスも多い。その瞬間である、“自分だけの野球の世界”が生まれるのは。日頃、よく見慣れている投手、打者なら、“瞬時の想像”が生まれて、スコアカードの記号につながっていく。それはそれで、“野球大好き人間”にとっての一種の愉悦だ。深夜のスポーツ・ニュースでその瞬間をテレビ画面で見たとき、ラジオ中継で聞いた瞬間に自分で想像した場面と同じだったとき、深夜の居間でひとり、“やったぜ”と快哉を叫んだりする(たまに同室にいる同居人は「バカみたい」といっているが)。
テレビ中継がないからずっとラジオ中継を聞いているうちに、ホワーッとウン十年前の、世の中にラジオ野球中継しかなかった少年時代の風景まで甦ってきた。つい「奇妙な体験」と書いてしまったのは、そのせいかもしれない。北国の小さな町の少年にとって“遠い世界の名選手たちのプレー”は、しょっちゅうガーガー、ピーピーと雑音が鳴りっぱなしのラジオのむこうにある、想像力でふくらませて楽しむものだった。それが楽しかった。
だが──。この9月24日、午後はNHK衛星テレビで札幌ドームの日本ハム-ソフトバンク最終戦をたっぷり楽しんだ(5時間10分!)。やはり、テレビでなければわからないと思ったのは8回裏、日本ハムが同点に追いついたとき、フラフラッと右翼線ぎりぎりに落ちた小谷野の打球で一気にホームをついた一塁走者・工藤の走塁であり、12回裏二死、代打・田中幸の左翼塀上段に当たった快打で一塁からの代走・紺田が間一髪、アウトになった幕切れのシーン。いずれもスリリングなシーンで、“こりゃ、やっぱり、いくらラジオの名アナウンスに想像力をふくらませてもテレビ実況にはかなわないな”と思ったものだ。そして夜、セ・リーグの決戦、巨人-中日22回戦はまたもやテレビ中継なし。ここでも3時間22分、“ラジオがお友達”の夜を過したのだが、昼のゲームのスリリングな走塁シーンが印象に残っていただけに、1回表、荒木の左前安打で一塁から三塁へ走った井端の走塁や5回表二死で走り三塁へヘッドスライディング、貴重な追加点に結びつけたウッズの走塁などは、深夜のスポーツ・ニュースではなく、その場でその瞬間を見ておきたかった(お~い、巨人のバッテリーよ、ウッズは21日の対広島戦でも延長10回表、盗塁してみせているんだぞ。ナメたらいかん)。
阪神がここにきてぐらついたのは残念だが、最後の最後までハラハラドキドキのペナントレース、選手もムキになり、ファンも熱くなっているというのに、アラ不思議、肝心なところで「テレビ中継はありません」とシラけさせてしまうということは、今後、ないでしょうなぁ、関係者諸兄。
posted by 田村大五 |17:11 |
第201回~第220回 |
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2007年09月18日
「タラ・レバ」の話はしてはいけないことになっている。“してはいけない”ことはわかっているのだが、つい「あのとき……だったら」とか「あのとき……していれば」と口にしたり“あと批評”してしまうのはネット裏の常だ。私も、しょっちゅう、やる。
小笠原の好投があったが浜中の一発で敗れた15日の対阪神21回戦、試合後、中日の落合監督は「タラ・レバの話はいかんよ」と口をつぐんだが、翌16日の試合前、前日の1回表、2走者を置いてのウッズの中堅への大飛球について「風が逆だっタラ……」と残念がっていたとテレビ解説者が明かしていた。「タラ・レバはいかんよ」といっていた監督自身もやはり、つい「タラ・レバ」を口にしてしまうというところが、ペナント争いの大詰め、心身を削る激戦の日々をよくあらわしている。
優勝争いの渦中にはいなくても、たとえば16日のパ・リーグの下位チーム、楽天・野村監督は、8回二死からの逆転負けに「野球は1球のスポーツ」と“1球の配球”を嘆き、延長10回で敗れたオリックスのコリンズ監督は「リリーフ投手の準備不足?」と問われて「準備不足の投手を出すと思うか」と報道陣の質問に怒ったという。私にいわせれば、いずれも「タラ・レバの世界」の嘆きや怒りだったと思う。
激しい攻防と、一戦一戦の一喜一憂で、日々、僅差で順位がめまぐるしく変わるセ・リーグ上位3チームの試合を見ていてこのところずっと私は個人的な「タラ・レバ」で試合を楽しんでいるのだが、いまもこだわっているのは14日の巨人-広島22回戦、8対3で広島リードの9回裏、巨人が5点を入れて追いつき、巨人が延長12回、9対8でサヨナラ勝ちした、あの例の少ない激戦だ。あの試合における私の[タラ・レバ」は、7回まで力投を続けていた広島・黒田投手が、そのまま続投していたらどうなっていただろうかという思いだ。あとを継いだ投手たちには申しわけないが、黒田だったら疲れていたとはいえ5点もとられただろうかという思いがずっと心の底にくすぶっている。終盤の巨人にとってあの試合が「1勝」になるか「1敗」になるかでその後に大きく影響したであろうから(これだって“タラ・レバ”だが)なおさらだ。
それというのも、広島だけでなく、このところずっと球界を支配している、100球を越えたあたりで先発投手を降板させ、中継ぎ役から抑え役へとつないでいく風潮のことがある。いや、“風潮”というより、それはいまや“定型”といったほうがいいかもしれない。14日、ボストンでヤンキース相手に5回2/3を被安打4に抑えながら交代、そのあと大敗したレッドソックス・松坂投手の悔しさをここにダブらせてもいい。あのケース、日本にいたときなら交代はなかっただろう。むしろ松坂のピッチングでよくみられたように後半のほうが調子にのってノリノリの完投をみせたかもしれない。いや、やめよう、いまもう日本球界も100球を越え7回を越えたら先発投手は交代させられるのだから。
でも、私は、黒田にも松坂にも投げさせたかったといまも思い続けている。これは「タラ・レバ」を越えた思いだ。
私は、もう20年以上も毎日、両リーグのペナントレースの記録ノートをつけているが、このところ「登板投手」の項目がすぐいっぱいいっぱいになり、20年以上続けてきた欄の幅を広げなくてはならなくなってきた。それだけ、いわゆる「中継ぎ役」の登場がどのチームでもめっきり増えてきたからだ。それほどどのチームも「中継ぎ役の投入」がひんぱんだ。見ている私にすれば、それはそれで、それまであまり見たこともない投手のピッチングを見ることができるので“ひとつの楽しみ”ではあるのだが、それにしてもそのことで肝心の勝負の行方がきまってしまったりすることが多いのでガッカリすることも多い。
JFKが話題の阪神でいえば、中継ぎ役も健投でこの限りではないが、最近、完投といえば、パ・リーグ、日本ハム・ダルビッシュ、西武・涌井、ロッテ・成瀬……。もっともっと「完投」を見たいと思っているのだが、いまの若い野球ファンは、どうなのだろう?
知っている人は知っているが、私、古くは別所毅彦、杉下茂(古いなぁ)らの完投ピッチングを見ている身。稲尾和久、杉浦忠といつもピッチングを語り合ってきた世代。「白球の視点」再開ということで一つの問題提起。
posted by 田村大五 |00:00 |
第201回~第220回 |
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