2007年10月02日
白球の視点 第213回
61年8月19日、甲子園球場。第43回、夏の甲子園大会、準決勝の浪商-法政二高戦。浪商・尾崎行雄-法政二・柴田勲の投げ合いで大いに沸いた試合だ。1回裏、法政二が先手をとった。それが二死一塁からの攻撃。次打者の打球は、二塁ベースカバーに走ろうとした遊撃手の逆をついて左前へと転がっていった。そのときの一塁走者が柴田で、「日本高等学校大会50年史」は、次のような「飛田穂洲評」を掲載している。 「浪商左翼手の内野返球の怠慢に乗じての柴田の快走による先取点。柴田の走塁はケイ眼というべきだが、浪商外野手の不覚もまた見逃すわけにはいかない」。 その浪商の左翼手が、初めて甲子園の土を踏んだ「1年生の高田繁」だった。私は、のちに高田が明大からドラフト1位指名で巨人入りしたとき、報知新聞に在籍中で「高田繁物語」の連載執筆を命じられて約1ヵ月、毎日のように本人の話を聞いてまとめたのだが、約40年も前の話、いまはもう細部に関してはほとんど忘れてしまっているのに、その甲子園の話だけは、そのとき語り続けていた高田の表情や、ほかの追憶話とは語調まで違っていたことをハッキリ記憶している。高田自身よほど衝撃的な体験だったからだろう。 「ぼくは別に怠慢プレーをしたとは思っていなかった。ただ、ごく普通に打球を捕って内野に返球したら、もう三塁をまわりかけている走者の背中が見えたとき、“こんなことってあるか”と思った。“ああ、野球って、こういうものなんか”と思った」。そして、こう、いうのだった。「あれが、私の野球の原点になった」。 以後、東京六大学野球の盗塁記録(当時)、法大の強肩捕手・田淵幸一との丁々発止の攻防、新人王に選ばれた“巨人1年生”の日本シリーズMVP、攻守両面のぬけめのないプレー、わけても「絶妙の返球プレー」といわれた左翼守備、それでも張本勲の入団で長嶋監督に三塁へのコンバートを命じられたとき正月も返上しての猛練習でベストナイン三塁手に……そういう高田繁の野球人生の原点が、浪商1年生のとき法政二・柴田勲の走塁を許した自分のプレーにあったというのである。 球団初の連覇を成し遂げたというのに、いま急に日本ハムのゼネラルマネジャー役を降りるといいだした高田繁の、そんな古い話を突然、思い出したのは、日本ハムが連覇を決めた9月29日、対ロッテ23回戦、0-0の6回表無死、一塁走者・稲葉篤紀が、次のセギノールの三遊間をゆるく抜けたヒットで一気に三塁へ走って生き、それが先取点につながったシーンを見たときだった。“こういう野球で勝ってきたんだな”という思いである。 小笠原が抜け、新庄が抜け「マスコミに日本ハムは弱いといわれて、順位予想などでも下位におかれ、みんなでクソーッと思っていた。だからみんなでとにかく次の塁を狙おうと思いつづけた」という選手たちのひたむきな姿勢。久しぶりの東京ドームでの試合を見にいったときにハッと胸をつかれたのは、守備位置につくときでもみんな背をのばし、全力疾走に近い走り方をみせていたことだった。 中継ぎ役を含めた抜群の投手陣、リーグ最多安打を競い合った稲場と森本稀哲……そういうヒーローとは別に、私はずっと、小谷野栄一とか工藤隆人、稲田直人や飯山裕志、それに一度、戦力外をいいわたされたが再びユニフォームを着た坪井智哉を含めてもいい、そういう選手たちの、攻守にわたる“ハツラツ・プレー”に注目してきた。彼らのプレーが何度、チームを救い、勝利に結びついてきたか。それが、守備位置につくときもひたむきに走っていく姿と結びつく。そして、それがまた、自分ではミスとも思わないプレーの虚をつかれ相手に走られてしまったことから野球をみつめ直した高田繁の姿とダブッてみえてきたのである。 大型補強にたよらず、ファームとの密接な連係による人材発掘も、今季の日本ハムの特徴といわれた。チーム編成の責任者・高田繁と現場の責任者・ヒルマン監督のみごとなチーム運営の成果といっていいだろう。なんということだ、その2人が去るという。ひとつのサンプルを示しておいて“ハイ、サヨナラ”はないだろうと思いつつも、後任者にさらなる課題をつきつけたひとつの“勇気”かと思ってみたりもする。いや、これは“金にあかした大型補強”への皮肉かもしれない。
posted by 田村大五 |17:06 |
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