2007年09月25日

白球の視点 第212回

 9月17日からの甲子園球場での阪神-巨人3連戦が「テレビ中継(地上波)なし」で、スポーツ紙だけでなく一般紙にも「プロ野球関係者やテレビ局はなにを考えているのか」という野球ファンからの声が相次いだ。私もかなりイライラしたひとりだ。プロ野球のオーナーの中には「NHKの大リーグ中継が多すぎる」と批判した人がいたそうだが、なんということをいうのか、自分たちで日本のプロ野球の熱戦をテレビで全国のファンに提供して楽しんでもらおうという努力もしないでよくそんなことをいえたものだ(NHKの大リーグ中継は、日本プロ野球中継の時間と違うので、ずいぶん楽しませてもらった)とハラがたっていたので、首位争いの渦中にある3連戦の「テレビ中継なし」には、ホント、「自分たちで人気低迷に手を貸しているのか」と思うほどイラだった。

 当然、ラジオの実況中継を聞く。聞きながらスコアカードを埋めていくのだが、そのうち、テレビ中継を見ているときより、「ラジオの実況中継-スコアカード作成」の作業のほうがずっと熱中度が高くなっていることに気がついた。1球、1球に、1場面1場面に不思議な“自分だけの野球の世界”が生まれ出てくるのである。これは、思いもかけない奇妙な体験だった。

 たとえば、追いあげているチームのほうが一死一、二塁のチャンスで同点か逆転かというときの二ゴロ併殺。ラジオだから、投手の表情も打者の表情もわからない。打った瞬間のコース、球種も、中にはパッパッと表現してくれるアナウンサーもいるが、なにしろ瞬時だから「投げました、打ちました、セカンドの正面」といった式のアナウンスも多い。その瞬間である、“自分だけの野球の世界”が生まれるのは。日頃、よく見慣れている投手、打者なら、“瞬時の想像”が生まれて、スコアカードの記号につながっていく。それはそれで、“野球大好き人間”にとっての一種の愉悦だ。深夜のスポーツ・ニュースでその瞬間をテレビ画面で見たとき、ラジオ中継で聞いた瞬間に自分で想像した場面と同じだったとき、深夜の居間でひとり、“やったぜ”と快哉を叫んだりする(たまに同室にいる同居人は「バカみたい」といっているが)。

 テレビ中継がないからずっとラジオ中継を聞いているうちに、ホワーッとウン十年前の、世の中にラジオ野球中継しかなかった少年時代の風景まで甦ってきた。つい「奇妙な体験」と書いてしまったのは、そのせいかもしれない。北国の小さな町の少年にとって“遠い世界の名選手たちのプレー”は、しょっちゅうガーガー、ピーピーと雑音が鳴りっぱなしのラジオのむこうにある、想像力でふくらませて楽しむものだった。それが楽しかった。

 だが──。この9月24日、午後はNHK衛星テレビで札幌ドームの日本ハム-ソフトバンク最終戦をたっぷり楽しんだ(5時間10分!)。やはり、テレビでなければわからないと思ったのは8回裏、日本ハムが同点に追いついたとき、フラフラッと右翼線ぎりぎりに落ちた小谷野の打球で一気にホームをついた一塁走者・工藤の走塁であり、12回裏二死、代打・田中幸の左翼塀上段に当たった快打で一塁からの代走・紺田が間一髪、アウトになった幕切れのシーン。いずれもスリリングなシーンで、“こりゃ、やっぱり、いくらラジオの名アナウンスに想像力をふくらませてもテレビ実況にはかなわないな”と思ったものだ。そして夜、セ・リーグの決戦、巨人-中日22回戦はまたもやテレビ中継なし。ここでも3時間22分、“ラジオがお友達”の夜を過したのだが、昼のゲームのスリリングな走塁シーンが印象に残っていただけに、1回表、荒木の左前安打で一塁から三塁へ走った井端の走塁や5回表二死で走り三塁へヘッドスライディング、貴重な追加点に結びつけたウッズの走塁などは、深夜のスポーツ・ニュースではなく、その場でその瞬間を見ておきたかった(お~い、巨人のバッテリーよ、ウッズは21日の対広島戦でも延長10回表、盗塁してみせているんだぞ。ナメたらいかん)。

 阪神がここにきてぐらついたのは残念だが、最後の最後までハラハラドキドキのペナントレース、選手もムキになり、ファンも熱くなっているというのに、アラ不思議、肝心なところで「テレビ中継はありません」とシラけさせてしまうということは、今後、ないでしょうなぁ、関係者諸兄。

posted by 田村大五 |17:11 | 第201回~第220回 | トラックバック(0)
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