2007年04月23日

サッカーだけが人生か 木村浩嗣

休日にはサッカーのことを考えないことにしている。
美術館に行ったり、映画を見たり、本を読んだりして過ごす。

「サッカーだけの人生」というのは十代なら純粋で、二十代なら情熱的だが、私のように四十代なら寂しい。

それは日々サッカーに関わっている指導者やジャーナリストであっても同じこと。彼らとオフに会う時は、何に心を動かされたか、怒ったか、笑ったか、悲しんだかが自然に話題の中心になる。そんな時に「いやー、あのメッシの5人抜きが…」とか「カペッロの傲慢なコメントが…」とかは、同年代の友人たちからは出てこない。
代わりに「このまま東京に住み続けられない」とか「好きになった人が結婚していた」とか「いきなり紙一枚で解雇された」とか。サッカーのファンタスティックなイメージに隠された、人々の生の「苦悩」が漏れ出てくることが多い。

悩みなくメッシやC.ロナウドを語れることは幸せである。だが、普通に生きていれば、サッカーは人生のごく一部でしかない。歴史的と言われるメッシのスーパーゴールで15分しか場が持たないのは不幸かもしれないが、逆に、2時間も語り合えてしまうのは味気ないものだ。

私が提供する話題は、映画や本についてであることが多い。
『美しき運命の傷痕』(ダニス・ダノビッチ監督)の最後のセリフ、「私はそれでも後悔していない」と、『ダメージ』(ルイ・マル監督)の同じく「そこにいたのは普通の女だった」は表面的には正反対の結論ながら、実は同じことを語っているのではないかとか。
『孤独と不安のレッスン』(鴻上尚史著)に身をつまされ、「人間は、一人でいる時に成長するのです」という言葉に、まるで10代の青年のごとく反応してしまうとか。
『ノー・マンズ・ランド』(ダニス・ダノビッチ監督)に描かれたジャーナリストの姿には――類型的ではあるが――、サッカー界にも共通するジャーナリズムの基本的な卑しさが良く表現されているとか。
『素晴らしい新世界』(オルダス・ハックスレー著)の新世界で使われる「全員は全員に属する」というスローガンは、小説内でのように階級社会の抑圧のガス抜きとして使われなければ、本当に「素晴らしい」幸福の鍵となりうるのではないかとか。

いや、もっと生々しい個人的な叫びや下品なニヤニヤ笑い付きコメントもあるのだが、ここで公開する訳にはいかない。

サッカーは人生の彩りだ。
だけど、100%捧げてしまう価値はない。「いや、ある!」と反論できる人は幸せだ。

posted by 編集部・木村浩嗣 |10:23 | トラックバック(1)
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