2007年04月04日

私はサッカーが嫌いだ

と、いうのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも周りから思われているほど好きではない。

このスポーツナビに書かせてもらった「ジダンの頭突きに見る、サッカーの醜さ」という、記事でもサッカー(とその周辺)の醜さを指摘しているし、友人たちなら、私が試合よりもデートを優先する人間であることを承知しているだろう。

サッカー観戦とデートが両立すれば一石二鳥なのだが、先週の『footballista』巻頭言でも書いた通り、ナンパの道具としてサッカーは無力。で、「うん、空いているよ。飲みに行こうか」と答え、予約録画をして出かけていくのだ。

人にはもう会えないかもしれない。だけど、サッカーは待ってくれる。どちらが優先すべきかは明らかではないか。

だからこそ、バルセロナファンでもレアル・マドリーでもなくいられるのだと思う。要は愛情が希薄なのだ。

とはいえ、愛せなくても共感する時はある。ちょっと前までバルセロナが好きだった。
ライカールトのチーム作りの志――攻撃、ボール支配、スペクタクル、大量得点――の高さには魅了される。私もスペインでの監督時代には、育成の観点から「スペクタクル」はともかく、「攻撃」+「ボール支配」+「大量得点」=「やってて楽しいサッカー」という公式を常に頭に描いていた。

が、最近ちょっと変わってきた。はっきり言えば「飽きた」。

『footballista フットボリスタ』で毎週、毎回、バルセロナを取り上げていると、「もうしばらく見たくない」という気になる。みんなが褒めそやすから、「別にうちの雑誌で取り上げなくてもいいか」と思うようになった。

この気分屋なところに、私の薄情さがよく表れている。

一方、レアル・マドリーとはいうと、ここ3、4年、プロ意識の欠けらもないような集団になり下がり嫌悪していた。とにかく、プロとしてちゃんとやらない選手、金をもらっているにもかかわらず、いい加減な仕事をする連中は許せない。
この気持ちは、「レアル・マドリー」というクラブの歴史にも栄光にも何も関係ない。これが「バルセロナ」であっても「バレンシア」であっても同じことだ。

こんな風だから、私の心の中のレアル・マドリーとバルセロナの上下関係が1年後に逆転していても何も不思議ではない。


が、レアル・マドリーやバルセロナへの思い入れが、デポルティーボへのそれよりも深くなることは決してないだろう。
そして、そのデポルティーボですらレクレアティーボにはかなわず、レクレアティーボはUDサラマンカには太刀打ちできず、UDサラマンカは「なんちゃらFC」への愛には負ける。

私は金持ちが嫌いだ。
金があれば必ずチームは強くなる。プロの世界で戦力とは突き詰めれば“金力”である。
三大リーグとは“三大(金持ち)リーグ”であり、ビッグクラブとは“(財布が)ビッグクラブ”である。
この持てる者が持たざる者を抑えつける構造は、一般社会とまったく同じだ。
そして、心情的に持たざる者へ肩入れせざるを得ない。努力が、(金で集めてきた)タレントを負かした時には拍手喝采する。逆に、札束で頬を張るがごとき勝利を目にしても、「当たり前じゃん」と思うし、全然、気持ち良くならない――。


スペインにいた時には大好きなチームがあった。
デートを断っても試合にかけつけ、仕事が入った時は申し訳なさで一杯だった。
俺のチームだ。
小憎らしいガキどもだったし一部にどうしようもない親たちもいたが、ラウールやメッシやビージャよりも愛した。

これからも飽きることなく愛し続けると思う。

posted by 編集部・木村浩嗣 |19:16 | トラックバック(1)
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