2010年08月07日
(3)「挙国体制」の完成
国家機関「中国体育運動委員会」の設立後、地方組織の整備も進み、中央と地方の役割分担が明確化していく。
1953年、中央体育委は共産党主導のもと、スポーツ行政の今後の方針を示した文書を発表した。「報告」と呼ばれるこの文書には中央機関は国家のためのエリートスポーツ教育、一方、地方機関は人民の健康のためのスポーツ普及を担うとの方針を示された。さらに細かくいえば、国家機関はオリンピックを狙うエリートアスリート、各国営企業の労働組合は労働者、教育機関は学生、軍事部門は軍人のスポーツ活動をそれぞれ管轄するというもの。この「階層別」の管理体制もまた中国独特のものだ。それぞれの機構は全て横並びで、共産党と国務院の指揮管轄下に入るという「中央集権体制」が採られた。
この「分担」は60年代にかけて、さらに強化されていく。中央機関は徹底的にスポーツエリートの教育に特化し、いわゆる“挙国体制”とよばれるシステムを作り上げていく。一方で、地方組織には中国独特の特徴、すなわち社会の「各階層」別に、スポーツ普及の組織が異なっていく。これによって、労働者の「職工体育」、学生の「学校体育」、軍人の「軍隊体育」という概念がそれぞれの職域で発展していくことになる。それぞれ「職工体育」は労働組合の福利や健康づくりのため、「学校体育」は教育の一環として、「軍隊体育」は軍事訓練の内容として、スポーツ活動が推進されていくというわけだ。実は、この名残として「階層別スポーツ」の名残も残っている。
4年に1度行われる全国運動会(日本の国体に相当)では各省の代表に加えて、人民解放軍が参加するし、「金融体育協会」「林業体育協会」「航空体育協会」など各業界もチームを作って出場しているのがその表れだ。
さて、一方で取り残されていたのは農村だった。1956年には国家体育委が「全国農村体育工作経験交流会」を実施。農村スポーツの在り方が議論された。そして1958年からは毛沢東国家主席の指導のもと、大躍進運動と生産手段の「公社所有制」に基づく分配制度が始まる。いわゆる「人民公社」と呼ばれる地区組織を母体にした生産制度である。この「人民公社」を基礎にしたスポーツは民兵の訓練と結びついて、青年・壮年層の積極的な参加を促し、「農村スポーツ」の基礎となる。
1960年代後半から文化大革命の嵐が中国大陸に巻き起こる。この時期は、中国スポーツに歴史にとって、「空白」の時間となった。特にスポーツのエリート教育は「人民大衆から離脱した資本主義的教育」であるとして批判の対象となり、中央・地方のスポーツ機関が“打倒”の対象となった。
posted by asa8043 |08:39 |