2007年11月20日
サッカーソウル五輪アジア最終予選 日本対中国 国立競技場
11月17日 サッカー日本五輪代表は4-0でベトナムに勝利、一方サウジアラビアが2-1でカタールに勝ち、カタールの予選敗退が決定、21日の日本対サウジアラビアで、日本は勝つか引き分けるかで北京五輪出場権を得る。 ホームの国立競技場で勝つか引き分けで五輪出場が決まる、同じようなことが昔あった。 もう20年も前のことになる。 翌年のソウル五輪を控えた1987年、メキシコ五輪以来20年ぶりの五輪出場を日本代表は目指していた。 1986年のW杯出場を争った韓国が五輪開催国として出場権を持っていたため、これまでの五輪予選に比べ比較的楽に予選突破が可能ではないかと見られていた。 事実日本は最終戦を前に4勝1引き分けで、勝ち点9、最終戦の相手の中国は3勝1敗で勝ち点7。 特に10月4日に広州で行われたアウェーの中国戦は1-0で日本が辛勝。 シュートの数は日本3に対し中国は20。フリーキックを得た水沼(日産)が時間を置かずにすぐセンタリング、これを原(三菱)がヘディングで挙げた貴重な1点を守って先勝している。 試合が始まった。 勝った方が五輪出場権を手にする激しい試合。ともにディフェンシブな立ち上がりたが、ディフェンスが素早く攻め上がる中国が、左右からの速い展開を仕掛ける。 中国の2トップは、前半15分から一方的に日本ゴールを脅かし、37分 左からの大きなセンタリングを長身FWが頭に合わせ0-1。日本はこの予選初の失点だった。 1点を獲り引き分けに持ち込みたい日本は、守りを固めた中国守備陣を崩し切れず得点できず、逆に82分、だめ押しの2点目を奪われてしまう。 これでソウル五輪出場権は中国が獲得、中国は五輪サッカー初出場。一方の日本は5大会連続の予選敗退となった。 日本代表には木村和司も奥寺康彦もいた。が、大半は終身雇用制の中の大企業の社員選手だった。(メキシコ五輪も社員選手じゃないかって?それでも類稀な才能を持った選手がその時期に集まったから銅メダルを獲った。) 数字上は日本有利だったがが、捨て身で攻めれば良い中国と、20年ぶりの五輪と大合唱するマスコミ、国立競技場を埋めた大歓衆の前で負けられない日本代表のプレッシャーは想像に難くない。 今から思えば負けるべくして負けたと思う。 ▼アマからプロへ 当時はJリーグ発足前の日本リーグ時代 プロの選手はいなかったのか? 1969年に設立されたサッカーの読売クラブ(現東京ヴェルディ1969)の出現は、企業アマの形態を崩す一助となった。 試合の結果に対して選手に報酬を出したのである。読売クラブの選手は原則社業がない。彼らがサッカーを職業とし、その対価として給与をもらっていた。 すると1972年設立の日産自動車(現横浜Fマリノス)をはじめ、新興チーム、老舗のチームにも事実上のプロ選手が現れる。 こうした形態を日本サッカーリーグ事務局、又日本サッカー協会が追認する形で認めたのが1986年から始められた実質的なプロ契約である「スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度」である。 当初西ドイツのブンデスリーガでプレーし、日本に帰国し古河電工に復帰した奥寺康彦のために用意した制度だったが日産自動車の木村和司も自ら手を挙げた。 そして日立、古河電工などでアマチュアとして登録していたものの実態は何らかの手当てを受け取っていた選手を、「ノン・アマチュア」、全く社員のままの選手を「アマチュア」と区分した。 翌年「スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度」と「ノン・アマチュア」を統合、プロ選手は57人に増えた。 ▼Jリーグ誕生 プロリーグへの待望論は、読売や日産、全日空、ヤマハといった後発チームの方が積極的であり、古河、三菱、日立といった老舗チームは消極的であった。 しかし後発チームに古河、三菱からのスタッフを加えたプロジェクトチームがプロリーグ構想を推し進め、1991年に日本プロサッカーリーグの構想を発表、1993年にJリーグが開幕した。 開幕後 日本は1996年のアトランタ五輪から3大会連続五輪出場を果たしている。
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posted by aolinpike |12:42 |
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