2008年01月09日
箱根駅伝にみる日本テレビのスポーツ戦略
昨年(2007年)の箱根駅伝で優勝した電通出身で順天堂大学のスポーツ健康科学部山田満准教授は、箱根優勝の広報効果は58億4688万円だったと見積もる。 山登りの5区で、3年連続で区間記録をつくった今井正人の力走を伝えた日本テレビのアナウンサーは、校名を74回連呼し、画面のテロップに校名が63回映しだされたという。 箱根駅伝の視聴率は正月三が日のテレビ番組で視聴率の1、2位を占める。 1月2~4日のテレビ(ニュースなどを含む)の放映時間、3、4日の新聞記事のうち、順天堂大学の占める秒数、紙面の面積を計算。広告料金に換算すると19億4896万円。広報効果はその3倍58億4688万円に相当するというのだ。 優勝争いに絡めば、自然と露出度は上がり、その年の大学入試にも影響を及ぼす。 箱根駅伝はいつからこんな怪物番組になったのだろう。 かつて、箱根駅伝はテレビ放送はなく、ラジオ中継もはじまったのは昭和28年(1953年)だそうだ。 東京五輪を契機に、スポーツの中心は学生から実業団へ移り、陸上競技は企業主体になった。それに伴い60年代から70年代に箱根駅伝は低迷していた。 ところが、箱根駅伝の人気を復活させたのは早稲田の瀬古利彦である。 高校時代は中距離の選手で800mから5000mまでのタイトル独占していた瀬古は、早大入学後、中村清監督(故人)に見出された。 瀬古は1年生からエース区間の2区を走り、3年4年と区間記録・区間賞を獲った。 当時も今もマスコミ界には早稲田出身者が多く、彼らにとっても臙脂のシャツに白く「W」を染め抜いた瀬古利彦の走る姿は格好の素材であり、箱根は瀬古の出現によって再び勢いを取り戻し、瀬古は国民的なスター選手になっていった。 箱根を最初に取り上げたのはテレビ東京である。 1983年の第59回大会からテレビ放送を開始したが、ゴールの生放送を含む1月3日12:00~13:54の録画ダイジェスト放送であった。 日本テレビが後援に入り本格的なテレビ放送が開始されたのは1987年。 1989年の第65回大会から現在のような全区間完全生中継が行われている。 この1987年というのはソウル五輪の1年前であり、8月にはローマで第2回の世界陸上が開催されている。 この4年後1991年には東京での第3回世界陸上開催が決まっており、日本テレビは20億円という巨額の放映権料を負担し、独占放送の計画があった。 東京世界陸上に向けて陸上競技、特に日本人選手がメダルに届きそうなマラソン、長距離に対する関心と競技者の裾野を広げるために、日本テレビの箱根駅伝生中継が始まったと見る。 事実、東京世界陸上には前後に例を見ない6人もの箱根経験者が参加し、男子マラソンでは日体大時代には山下りのスペシャリスト(6区)として3年連続で区間賞を獲得した谷口浩美が金メダルを獲得している。 世界陸上に出場した日本人男子選手で優勝したのは現在でも谷口ただ一人だ。 日本テレビの世界陸上中継は、93年シュツットガルト、95年イエテボリ大会で終了。 97年のアテネ大会からはTBSがホスト局に代わった。 1931年、読売新聞社社長の正力松太郎が中心となってアメリカメジャーリーグ選抜軍を日本に招待し、強豪大学チームとの試合を行った。 興行は成功を収めたものの、その後文部省により、プロであるアメリカメジャーリーグ選抜と大学チームは試合ができなくなった。 それに伴い大日本東京野球倶楽部が結成され、1934年には、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁した全米軍と試合をすることになった。大会は読売新聞の報道もあって大きな注目を集め、大日本東京野球倶楽部は後に読売巨人軍となった。 この当時は日本テレビ開局前であるが、読売・日テレグループのスポーツ戦略はこのとき既にできていたといえる。 日本テレビは、1952年に開局し今年55周年を迎える。 当初からスポーツを重要なコンテンツと捉え、読売グループ総動員で盛り上げるという手法を得意としていた。簡単にその経過を振り返ると 1953年 民放初のプロ野球中継 巨人対阪神 中継 1953年 プロボクシング世界選手権白井義男-テリー・アレン戦中継 1954年 「力道山・木村政彦対シャープ兄弟プロレス実況」を放送。街頭テレビ プロレス旋風を起こす。 1969年 読売クラブ誕生 1971年 全国高校サッカー選手権大会を毎日新聞社に代わって主催し、独占中継権を得る。 1976年 全国高校サッカー選手権大会を東京開催へ変更 1979年 トヨタ杯開始 1987年 1月2日・3日 東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)中継放送開始 1987年 世界陸上ローマ大会独占放送 1991年 世界陸上東京大会独占放送 1995年イエテボリ大会まで 2000年 全日本プロレス中継終了 2005年 FIFAクラブワールドカップ開始 2006年 巨人戦視聴率初の10%割れ 東京ヴェルディの前身である読売サッカークラブは1969年に誕生した。 1969年というのはサッカー日本代表が銅メダルを獲ったメキシコ五輪の翌年であり、読売クラブは将来のプロ化を目指しての設立だった。 そして将来のプロに選手を供給することを目的に、日本テレビが全国高校サッカー選手権のテレビ中継を開始したのが1970年。 そして大阪長居競技場で開催されていた同選手権を東京国立競技場に持ってきたのが1976年であり、トヨタ杯の誕生が1979年。この先には当然W杯出場があったのだ。 箱根駅伝は80余年の歴史のある大会だが、関東学連主催のローカル大会であり、学生駅伝にはほかにも日本学生陸上競技連合が主催する全日本大学駅伝と出雲駅伝がある。 本来全国大会である後者のほうが注目されてしかるべきなのだが、現実箱根駅伝の注目度にはかなわない。 これはマスメディア、特に日本テレビ、読売新聞が必要以上にその背景をドラマ化してしまい、大学駅伝をめざす高校生が地方の大学よりも関東の大学を目指すようになっているためだ。 結果、優秀な選手は関東の大学にしか集まらなくなるという弊害を起こしている。 また11月の全日本大学駅伝も箱根の前哨戦と位置づけられてしまっている。 さらには選手が箱根駅伝で燃え尽きてまい、男子マラソン、長距離ではなかなか世界で上位にくいこめる選手が出てこない状況をも作っている。 かつて、甲子園の高校野球は、良くも悪くも日本人の精神主義、集団志向の象徴だったが、現代の日本人の意識と合わなくなってきているのか、以前ほど社会現象、話題になることはない。 箱根駅伝が甲子園に代わっているのではないか、テレビの視聴率が如実にそれを物語っている。 ●参考 2007年箱根駅伝総合優勝の広報効果の研究
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陸上競技 |
2007年11月27日
中国出身者ばっかり 卓球世界ランキング
FIFAのブラッター会長が、先日の2010年W杯予選の組み合わせ抽選会を前に「ブラジル人の帰化はもう終わりに、対策を講じる必要がある」と語ったことが伝えられた。 選手の国籍変更、特にブラジル人の国籍変更について、注意しなければ、ヨーロッパだけでなくアジアにもアフリカにも、ブラジル人が押し寄せてしまうと危惧しているのだ。 日本代表を見ても古くはネルソン吉村(故人)、ラモス瑠偉、呂比須ワグナーから田中マルクス闘莉王まで多くのブラジル出身者が日本国籍を取得して日本代表入りをしている。 この傾向は世界的のようだ。 多くの優れた人材を抱える国から、乏しい国に人材が流れるのは他の種目でも同じだ。 アメリカ出身のバスケットボール選手は、多くの国でプレーしその国の国籍を獲っている。 長野五輪のときに多くの日系カナダ人がアイスホッケーの日本代表入りをした。 とはいうものの、卓球の中国人ほどこれが甚だしいものはない。 2007年11月現在の女子の世界ランキングの抜粋である。 上位10人中、中国籍が5人、香港2人、シンガポール2人、日本1人だが、香港、シンガポールの選手はいずれも中国からの帰化者であるため、実際には中国9、日本1となる。 福原愛は中国(系)を除くと世界一となる。 上位20人までみてもオランダ、オーストラリア、アメリカ、ドイツの選手が中国出身。 中国(系)17、日本2、韓国1という凄さだ。 ●卓球女子世界ランキング 1.張怡寧 中国 2.郭躍 中国 3.王楠 中国 4.郭炎 中国 5.李暁霞 中国 6.リ・ジャウェイ シンガポール 7.姜華君 香港 8.王越古 シンガポール 9.帖雅娜 香港} 10.福原愛 日本 11.林菱 香港 12.牛剣鋒 中国 13.金璟娥 韓国 14.リー・ジャオ オランダ 15.リュウ・ジャ オーストリア 16.スン・ベイベイ シンガポール 17.高軍 アメリカ 18.平野早矢香 日本 19.呉佳多 ドイツ 20.福岡春菜 日本 29.金沢咲希 日本 43.藤井寛子 日本 48.樋浦令子 日本 50.藤沼亜衣 日本 参考 TIBHAR http://www.tibhar.jp/index.htm 29位の金沢咲希は実は中国河北省出身の帰化選手。 かつての名は満麗であり、04年7月に日本に帰化している。 男子の世界ランク23位の韓陽(遼寧省出身名前はそのまま)、57位の吉田海偉は中国河北省出身で2人とも帰化選手だ。 かつても小山ちれ、新井周、偉関晴光といった中国からの帰化選手が日本代表で活躍したが、北京五輪を控え帰化選手のモチベーションも高くなっている。 世界の卓球強国の中で、唯一中国出身者がいなかったのが韓国。 ところが、韓国の実業団でプレーしそのまま韓国人と結婚した選手など、3人の女子選手が韓国籍を獲ったという。 代表レベルではまだいないようだが、時間の問題だろう。
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その他の競技 |
2007年11月20日
サッカーソウル五輪アジア最終予選 日本対中国 国立競技場
11月17日 サッカー日本五輪代表は4-0でベトナムに勝利、一方サウジアラビアが2-1でカタールに勝ち、カタールの予選敗退が決定、21日の日本対サウジアラビアで、日本は勝つか引き分けるかで北京五輪出場権を得る。 ホームの国立競技場で勝つか引き分けで五輪出場が決まる、同じようなことが昔あった。 もう20年も前のことになる。 翌年のソウル五輪を控えた1987年、メキシコ五輪以来20年ぶりの五輪出場を日本代表は目指していた。 1986年のW杯出場を争った韓国が五輪開催国として出場権を持っていたため、これまでの五輪予選に比べ比較的楽に予選突破が可能ではないかと見られていた。 事実日本は最終戦を前に4勝1引き分けで、勝ち点9、最終戦の相手の中国は3勝1敗で勝ち点7。 特に10月4日に広州で行われたアウェーの中国戦は1-0で日本が辛勝。 シュートの数は日本3に対し中国は20。フリーキックを得た水沼(日産)が時間を置かずにすぐセンタリング、これを原(三菱)がヘディングで挙げた貴重な1点を守って先勝している。 試合が始まった。 勝った方が五輪出場権を手にする激しい試合。ともにディフェンシブな立ち上がりたが、ディフェンスが素早く攻め上がる中国が、左右からの速い展開を仕掛ける。 中国の2トップは、前半15分から一方的に日本ゴールを脅かし、37分 左からの大きなセンタリングを長身FWが頭に合わせ0-1。日本はこの予選初の失点だった。 1点を獲り引き分けに持ち込みたい日本は、守りを固めた中国守備陣を崩し切れず得点できず、逆に82分、だめ押しの2点目を奪われてしまう。 これでソウル五輪出場権は中国が獲得、中国は五輪サッカー初出場。一方の日本は5大会連続の予選敗退となった。 日本代表には木村和司も奥寺康彦もいた。が、大半は終身雇用制の中の大企業の社員選手だった。(メキシコ五輪も社員選手じゃないかって?それでも類稀な才能を持った選手がその時期に集まったから銅メダルを獲った。) 数字上は日本有利だったがが、捨て身で攻めれば良い中国と、20年ぶりの五輪と大合唱するマスコミ、国立競技場を埋めた大歓衆の前で負けられない日本代表のプレッシャーは想像に難くない。 今から思えば負けるべくして負けたと思う。 ▼アマからプロへ 当時はJリーグ発足前の日本リーグ時代 プロの選手はいなかったのか? 1969年に設立されたサッカーの読売クラブ(現東京ヴェルディ1969)の出現は、企業アマの形態を崩す一助となった。 試合の結果に対して選手に報酬を出したのである。読売クラブの選手は原則社業がない。彼らがサッカーを職業とし、その対価として給与をもらっていた。 すると1972年設立の日産自動車(現横浜Fマリノス)をはじめ、新興チーム、老舗のチームにも事実上のプロ選手が現れる。 こうした形態を日本サッカーリーグ事務局、又日本サッカー協会が追認する形で認めたのが1986年から始められた実質的なプロ契約である「スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度」である。 当初西ドイツのブンデスリーガでプレーし、日本に帰国し古河電工に復帰した奥寺康彦のために用意した制度だったが日産自動車の木村和司も自ら手を挙げた。 そして日立、古河電工などでアマチュアとして登録していたものの実態は何らかの手当てを受け取っていた選手を、「ノン・アマチュア」、全く社員のままの選手を「アマチュア」と区分した。 翌年「スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度」と「ノン・アマチュア」を統合、プロ選手は57人に増えた。 ▼Jリーグ誕生 プロリーグへの待望論は、読売や日産、全日空、ヤマハといった後発チームの方が積極的であり、古河、三菱、日立といった老舗チームは消極的であった。 しかし後発チームに古河、三菱からのスタッフを加えたプロジェクトチームがプロリーグ構想を推し進め、1991年に日本プロサッカーリーグの構想を発表、1993年にJリーグが開幕した。 開幕後 日本は1996年のアトランタ五輪から3大会連続五輪出場を果たしている。
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サッカー |
2007年11月19日
バレー界最長身は208センチ
日本人男子(17歳)の平均身長は170.9センチだとか。 ちなみに韓国は173センチ、古くから肉食で椅子の生活が長いから、日本人より体格がいい。 男子バレーのW杯が始まったが、植田辰哉監督の身長は196センチ。体重は110キロはあるだろう。 バレー界では普通の身長だが、現役時代は大きい方だった。 作戦タイムのときにもう一人凄く背の高いスーツの人がいるだろう。 あの人は大竹秀之コーチ。 公称で208センチ、実際には213センチとの説もある。 植田監督、大竹コーチ、キャプテンの荻野正二ともバルセロナ五輪6位入賞のメンバーだ。 バルセロナのときはほかにも中垣内祐一、泉川正幸、南克幸…といい選手が揃っていた。 大竹コーチの208センチは日本バレーボール史上、日本五輪史上最長身でもある。 ところが上には上がいてロシア代表のアレクセイ・カロザコフの身長は217センチ、去年の世界バレーにも出場していたが、217センチがジャンプサーブを打つとまさに3階からサーブを打つようで・・・。 それでもブラジルぐらいになると、やすやすとレシーブするんだから。 では、バスケットボールはどうか。 バスケットは1976年のモントリオール五輪を最後に五輪出場を果たしていないから、最長身はミュンヘン、モントリオール五輪に出場した沼田宏文さんの205センチ。 松下電器のバスケット部長をされていたが、母校の同志社の監督になったという話だ。 五輪出場はしていないがおそらく日本スポーツ史上最長身は住金、全日本の長身センターとして活躍した岡山恭崇さん 228センチ。 東西線で通勤しているところを見かけたことがあるが、地下鉄よりでかかった。 岡山氏が現役の頃、中国には穆鉄柱(MuTiezhu日本語読みは ぼくてっちゅう)というセンターがいて、日中戦ではよくマッチアップした。 穆鉄柱も岡山氏と同じ228センチなのだが、当初中国は身長を公表せず、推定240センチとマスコミに騒がれていたこともある。 そこいくと、ヒューストンロケッツの姚明(YaoMIng)は、226センチとこの二人とほとんど変わらないのだから驚くべき高さだ。
posted by aolinpike |13:04 |
バレーボール |
2007年11月19日
一夜明けたら勝敗が逆転 日本、米国に勝利 男子バレー・バルセロナ五輪
公式の試合で勝敗が確定した後で、結果が逆転したケースはほとんどないだろう。 審判の判断は絶対であり、試合が成立したらそれは覆らない。 1992年バルセロナ五輪2日目バレーボールの男子予選リーグ、日本-米国戦は、いったん米国の勝利と決まったが、一夜明けて日本の逆転勝利となった。 フルセットの熱戦の末、五輪史上初の3連覇を目指す米国の勝ち、とされた試合だったが、国際バレーボール連盟(FIVB)は、翌日に開いた裁定委員会で「第4セットは審判の不手際で負けた」と主張する日本側の抗議を認める異例の裁定を下した。結果、試合は3-1で日本の勝ちと、明暗が覆った。 1992年7月26日 日本対米国 終了時 米国(1勝) 3(15-8 11-15 10-15 17-16 16-14)2 日本(1敗) ↓一夜明けて 日本(1勝) 3(8-15 15-11 15-10 15-13)1 米国(1敗) 主審のルール適用ミスが起きたのは、セットカウント2―1と日本がリードした第4セット。日本は14―13のマッチポイントを迎えたが、ここで米国のサムエルソンが判定に不服を唱え、主審から注意を受けた。これは同選手がこの試合で受けた2度目の注意であり、サムエルソンは、自動的に「警告」のレッドカードとなるはずだった。 ラリーポイント制になる以前の当時のルールによれば、この場合、「警告」となった選手の相手チームは、サーブ権があれば1点を、ない時はサーブ権を取れることになっており、サムエルソンが2度目の注意を受けた時は、日本側にサーブ権があった。 つまり、日本に勝利を決める1点が加えられるケースだったのだが、主審はそのまま試合を続行。 結局、最終セットまでもつれた末、日本が逆転負けとなっていた。 日本の大古監督は試合終了後、ジュリー(上訴審判)に激しくアピールし、FIVBにも、「審判の不手際で負けた」と抗議し、異例の勝敗の逆転という結果になった。 ▼スキンヘッドのサムエルソン 覚えておられる方もあるかもしれないが、その後日本のサントリーでもプレーするサムエルソンは、スキンヘッドでユニフォームの袖をまくり、丸太のような太い腕でプレーするという輩。試合中に興奮した姿は赤鬼そのものだった。 この連盟の裁定に対し、米国チームは次の試合以降、チーム全員がスキンヘッドで登場する。 手際の悪かった審判団、連盟に対する抗議と、責任を一人背負い込むサムエルソンの精神的負担を和らげためと伝えられた。 全員がスキンヘッドのチームというのは、選手の区別がつきにくい為、アナウンサー泣かせでもあった。 米国は、日本戦の敗戦がのしかかり、3連覇はならずに銅メダル。 日本は12か国中6位と好成績を残したが、このバルセロナ五輪が最後の五輪になっている。 ▼37歳で全日本 この試合(15年前)に出場していた選手が、まだ全日本で活躍している。 荻野正二37歳。ジュニアの頃、日本男子バレーボールの世界選手権史上、シニアも合わせても最高順位である世界ジュニアで2位になったときのメンバーで、それから17年、男子バレーを支えてきた一人だ。 現全日本監督とコーチは植田辰哉(キャプテン)と大竹秀之、ともにバルセロナ五輪を戦ったメンバーである。 ▼昨日のチュニジア戦 世間では男子バレーに厳しい意見が多いが(まあ女子も多いな)、今回のメンバーはそこそこやると思っていただけにもったいない。 このチームは2005年アジア選手権優勝(開催タイ)、2006年世界選手権8強(開催日本)、2007年アジア選手権2位(開催インドネシア)という実績もあり、近年ではもっとも強い。 むしろ海外での試合の方が肩に力が入らなくて実力を出し切るのではないか?
posted by aolinpike |11:22 |
バレーボール |


